人のために生きると「孤独になる」

親がだんだん、歳をとってくると、哀しい気持ちになって、
心が痛みます。

けれども、その一方で、そんな状況になったのは、
自分のやってきたことの結果だと、伝えたくなる私もいます。

もちろんそれは、同じことを「自分自身」にも言っています。

自暴自棄的に言っているわけではありません。

自分の今ある人生は、自分の選択の結果である、と。
私たちは日々、選択し、そしてその結果を、自分が体験する。

こんなふうに言うと、
「私は、何も悪い事はしていない。善良に生きていただけだ」
確かにそうです。
私も、そう思います。

大半の人たちが善良に生きてきた。
それなのに、こんな結果になるのは、この世に
「神も仏もないのか」と嘆きます。

でも、でも、です。

どうして、人生の終盤に至って、誰かに依存してしまいたくなるほど、
心が弱るのでしょうか。

体力がなくなるから?
それもあるでしょう。

身体のあちこちに、さまざまな加齢による老化現象が
起こってくるから。

でも、障害を抱えていても、生き生きと生きている若者もいます。

もちろん、年齢的に、あるいは体力的に、
人の手助けが必要な人もいるでしょう。

けれども、肉体的に手助けしてもらう必要があるとしても、
心で、まるまる依存するかどうかは、自分の心の問題です。

歳をとってきて、あちこち故障が出てきたとしても、
心まで丸投げで依存してしまうというのは、どうでしょうか。

そんな人たちは、
「誰かがいつも、絶えず側にいてくれないと寂しい、孤独だ」
こんな気持ちを抱えています。

独立した子供が来てくれても、一緒に居てくれることを
感謝するよりも、
「もう少し経ったら、帰ってしまうんだ」
と考えて、寂しい気持ちになります。

帰ってしまうと、
「今日は、とてもいい時間を過ごせて、よかったなあ。
ありがたいなあ。幸せだなあ」
とは言いません。

幸せな時間を実感することもなく、その余韻を味わうこともなく、
みんなが居なくなったら急に孤独感が押し寄せてきて、
「今度は、いつ来るの」
と、すがるように電話をしてしまいます。

相手が出ないと、孤独感がいっそう強くなります。
だから、出るまでかけ続けます。

「一緒に居てくれても、孤独感に苛まれる」
それは、丸ごと自分をわかってほしいと
つぶやき続けてきたからでしょう。

ではどうして「わかってほしい」とつぶやき続けてきたのか。
それは、依存的な心で、相手に尽くしてきた結果ではないでしょうか。

「相手に尽くせば、相手がそれに答えてくれる」
「相手に尽くせば、相手が自分を幸せにしてくれる」

そう信じて、自分のために生きてこなかった人たちでしょう。

「わかってほしい、わかってほしい」と相手に望む人は、
これが「未来の自分の姿」です。

誰も、その孤独から救うことはできない。

だから、今、自分のために生きましょう。