息を吐くように嘘をつく2

自分がどんな意識を持ち続けるか。それによって、
自分自身の人生を、自分が知らずのうちに決定づけています。

前回述べたように、
「嘘をつかないと、損する。でも、自分はできない。
だから、損する」
などという不満を抱いていれば、
それが自分の人生の一部の設計図をつくることになります。

「他者中心」になっている限り、外側を見ます。

外側をみると、他者と自分を比較してしまうのは、
言うまでもありません。
他者をみるから、自分と比較したくなるのです。

他者と比較して、
「あの人は得している。自分は損している」
「あの人がしているから、自分もしないと損だ」
などと、外側をみて比較すれば、その多くが
不満や不安や焦りを生み出すでしょう。

「自分中心」は、違います。

自分中心は、自分自身のほうに焦点を当てて、
自分の「気持ち、欲求、感情」を大事にすることをめざします。

相手のほうに焦点を当てないということは、
例えば「息を吐くように嘘をつく」相手であっても、
そんな相手を「前提」とします。

そんな相手とは付き合わないにこしたことはないのですが、
付き合う必要があるとしたら、前提として、
付き合うことになります。

社会全体が、仮に「息を吐くように嘘をつく」社会
であっとしても、自分自身のほうに焦点を当てていれば、
自分が納得できる、満足できる生き方をしようと
決めることができるでしょう。

「自分中心」になって、自分の心に沿った生き方の方が、
はるかに満足度が高く、また人生が豊かになると、
経験的に知っているからです。

むしろ、そういう社会であればあるほど、
「自分中心」になっていないと、
周囲のさまざまな風に翻弄されて風見鶏のように
生きることになるでしょう。

相手が「息を吐くように嘘をつく」としたら、
そんな人間であることを前提とします。

前提とするからこそ、自分自身が、
「そんな相手に、どう対処するか」
ということを、考えることができるのです。

そんな相手に、「嘘をつかないように」
という期待を抱きません。
例えば嘘をつく相手が、
「親が病気だから、お金を貸して」
と言ってきたとき、「それが本当だったら貸す。
そうでなければ貸さない」という捉え方はしません。

どんな事情であれ、それが嘘であれ、
自分の今の気持ちに焦点を当てて、
「私が貸したいかどうか」
の気持ちを確認しようとするでしょう。

貸さないも、貸すも、返してくれないことを承知で渡すも、
自分の心に適った判断と決め方ができるでしょう。

こんなふうに「自分の心に適った生き方」のほうが、
「嘘をつかないと損する」という生き方よりも、
はるかに騙される確率も低いでしょう。

そして、そんな生き方のほうが、現実が、
嘘をつく社会であったとしても、少なくとも自分自身はもっと
「安全なところ」で生活をしているでしょう。

こんなふうに「他者中心」と「自分中心」では、
谷底の崖崩れが起こりそうなところに住むか、
高台のしっかりとした基盤の安全なところに住むか
というほどの違いがあるのです。