ぶれない人は

自分の言動にぶれがない人は、話の筋が一貫しています。

話に一貫性を持たせるというのは、並大抵のことではありません。

身の保身に終始すれば、一貫性はなくなります。

一貫性がなければ、どこかで綻びが生じます。

他者のせいにする言動や、他者を攻撃したり、
他者に責任を転嫁せざるを得ないような言い方が、
自分にとって有利に働くことは決してないでしょう。
仮にその場では、言い逃れができたとしても、です。

どうして“ぶれない”でいられるのでしょうか。

それは、常に自分の視点から物事を見ていて、
そこから逸れからです。

自分中心になっていれば、意識は、外側に向かわずに、
常に自分に「在ります」。

それは、「常に自分を観ている」状態です。

常に、自分の目線とその範囲での、「事実」あるいは
「事実と思われること」あるいは「自分の主観」
といったものの違いを、しっかりと認識し、自覚しています。

その区別がついていて、自分の主張すべきポイントを
具体的に把握していて、そこから逸れないので、
「ぶれがない」のです。

それはすなわち、「自分を守ることができるポイント」
でもあります。

他者が言った言動も、ひとつひとつ自分に落とし込み、自分に立ち戻り、そして、自分の目でみる「事実」や「体験」を語ります。

モリカケ問題のときのように、
参考人招致や証人喚問のような場所に登場するような経験は
したくありませんが、それぞれの人生の中で、
自分に起こった問題にしっかりと立ち向かい、
主張しなければならないことは、誰にでも起こり得ることです。

そんなとき、意識が相手に向かうと、
自分を主張すべきときにさえ、相手を誹謗中傷したり、
個人攻撃をするだけとなってしまうでしょう。

これでは、少なくとも「自分自身を守る」ことはできません。

「意識が自分にある」と、主張が逸れません。

そのために、
自分の言質をとられない。
失言で揚げ足を取られない。

「自分」から逸れないことです。

もっとも、そんな自分でいるには、常日頃から、
意識が「自分に在る」状態でいる必要があります。
また、自分のとる言動も、自覚しておく必要があります。

どんな局面に立たされても、自分が“ぶれない”でいられる、
というのは万人の願いでしょう。

こんなふうに書くと「とても難しいこと」のように
感じるでしょう。
けれども、それほど難しいことではありません。

「ぶれない」自分になるには、日頃から、自分中心になって、
自分の視点から物事を把握する力を磨くことです。

そして、自分の責任の範囲を具体的に見極めて行動することが、
「自分を守ることになる」のです。