優位に立ちたい人よりも「優位に立つ」

ひところは、女性と男性とは違うという「性差」を、
盛んに言われていました。
その一つに、女性は、男性のヌードには関心がないといった、
迷信もありました。心理学者が真顔を言っておりました。

韓国のドラマは、男性の美形や肉体美をアピールする
ところもあります。

もちろん男女の性差はあります。
けれども、ことさらそれを強調することもないように思います。

もともと、女性の立場は、被支配的でした。
今でも、決して社会的な地位が平等とは言えません。

それはともかくも、かつて男性が女性にしていたことを、
今、女性が男性にしはじめたからといって、
「支配―被支配」の関係という点でいえば、
驚くほどでもありません。

「勝ち負け」や「優劣」を争うという観点からすると、
勝ったほうが、支配する。そこに女性も男性もありません。
女性であろうが、優位な立場に立てば、同じことをしてしまう、
ということなのだと思います。

自分が被支配的であれば、支配的になってみたいと思うでしょう。

被支配的な扱いを受ければ、それは心に傷みとして残ります。

過去の恨み辛みも重なって、みんなが「優位に立つ」
ということを口実に、「仕返しごっこ」をしているとも
言えるでしょう。

普通の人たちが、優位に立とうとする人たちよりも
「さらに優位に立つ」ためには、結論から言うと、
そんな仕返しごっこに、どれだけ「乗らないでいることが
できるかどうか」です。

その方法が、自分の「感じ方」に気づき、その「感じ方」
を基準にした対応を取る、ということです。
もちろんそれは、自分を優先する方法であり、
自分を守ることでもあります。

だからこそ、「今、目の前で起こっている」ことに、
早めに気づく必要があるのです。

その中に、優位に立ちたい人よりも「優位に立つ」
方法が隠れています。

ところが、かつての女性がそうであったように、今は、
男性も女性も、自分がどんな扱いを受けているか、
気付かない人たちも少なくありません。

男性だから、「女性の〇〇」に傷つくなんておかしい。
男性だから。
女性だから。

そんな一般化された言葉に従っていると、不当な扱いにも
気付かなくなってしまうでしょう。

もっと腹を立ててもいい場面、はっきりと「ノー」と
言ってもいい場面でも、侮辱されたときですら、それに気づかない。

例えば、小さいころ、先生の悪口を言うわけではありませんが、
とても先生が偉い、というふうに見えませんでしたか。

多くの人にとっては、子供のころは「親が偉い」と
見えていたでしょう。
偉いと思っていたから、親の言うことや忠告にも従った……。

けれども、成長した目で先生や親をみて、
「え! これが、あの先生? 自分が信じていた親?」
と実物大の姿に気づくとき。

ときには、
「どうして、こんな親の言うことを信じて、
黙って従っていたのだろう」
と“我に返る”ような瞬間のとき。

優位に立ちたい人よりも「優位に立った」とき、
そんな相手の実像が見えてきて、これまでの恐れが
「哀れみ」や「慈しみ」に変わるかもしれません。