人のことが気になる

人のことが気になる  
人の視線が気になる。
人が、私のことを冷ややかに見ているのが、わかる。
自分に対して、人が否定的にみているような気がする。

こんなふうに、「人のことが気になって仕方ない」
という人たちが、日に日に増え続けています。

誰もが、他者に対して批判的。
一般常識と外れたことをすると、みんなが一斉に攻撃する。

どうして、そうなってしまうのか。
それは、言うまでもありませんね。

「自分は規則を守っているのに、どうしてあの人は許されるんだ」
「私は、したいことも我慢して耐えているのに、
どうして、あの人は、平気であんなことをするんだ、許せない!」

最近では、コロナワ○○ンのことで、
「私は、副反応で苦しんだのに、あの人は、
(打たないで)苦しまないのは、許せない」
と思ってしまう人も増えているそうです。

他者を徹底的に攻撃したくなる人ほど、
こんなふうに、自分と違ったことや、
みんなと違ったことをしている(ように見える)と、
「許せなく」なります。

しかも今は、それが「絶対に許せない!」という
激しい感情にまで達しているようです。

もちろん自分中心で絶えず言ってきていることですが、
自分を縛る人ほど、他者にも厳しい見方をしていきます。

国が規則、法律でどんどん国民を縛っていけば、
国民もまた、他者を縛るようになるでしょう。

自分にされていることは、他者にもします。

現代は、以前とは比べものにならないほど監視体制の基盤が
整っているので、悲惨なほどの監視社会となっていくでしょう。
映画の世界が、本物になりつつあります。

実際に、前記した人たちが、急増しつつあるということが、
それを証明しています。

他者の目を気にしても気にしなくても、
すでに監視社会になってきているのです。

お互いに、みんなが他者を疑心暗鬼の目でみれば、決して、
相手を好意的に見ることはないでしょう。

根底に「他者を否定的に見る」意識が巣くっていれば、
仮にあなたが「良いことをした」としても、それすらも、
何か邪(よこしま)な意図があるように映るでしょう。

他者に対して好意的でなければ
(すなわち自分に対して好意的でなければ)、
何をやっても、自分の善意は通じない。

どっちに転んでも、他者が自分に対して
「好意的に見ることはない」としたら、前記のように、
人から「冷ややかに見られていたり、
否定的な目で見られていたり」しても、
そうやって他者を気にすることに、
何の意味があるのだろうかと、私は思ってしまいます。

決して他者を好意的に見ない人たちに、
必死に好意的に見られようとしても、元から
「他者を否定的に見る」人たちが、自分を肯定的に見ることは、
ないのだから。

それに、私は思います。

そうやって
「他者を否定的に見ている」
のは、また、自分自身でもあるのだと。