根底が変わらないと、同じことを繰り返す

ついつい怒鳴ってしまう人たちが、少なくありません。
最近では、国会議員の河野さんが、職員(?)だったかに、
怒鳴り散らしている場面の動画を観ました。
議員さんたちは、怒鳴ったり感情的になって
八つ当たりしたりする人たちが多いように感じます。

ことが終わると、怒鳴る人たちは、
それで怒鳴ったことを謝罪するかと思えば、
ほとんどそうではありません。
あたかも何事もなかったかのように、平静な顔に戻ります。

このパターンは、信念から起こっているので、
彼らは怒鳴ることをやめることはできないでしょう。

仮に彼らが猛省して、
「これから気をつけます」
と言ったとしても、根底の意識が変わらなければ、
そのパターンが変
わることはないでしょう。

どうして、感情的になってしまうのか。

大多数の人たちが、自分の感情コントロールの問題だと
信じているようです。

昨今は、社会情勢に振り回されて右往左往してしまうためか、
ますます感情的になってしまう人が増えています。

一般的な認識は、まだまだ「感情のコントロールができる、
できない」というところに焦点が当たります。

けれども、ここに焦点が当たっている限り、
感情的な人たちはどんどん増え続けていくでしょう。

問題の本質は、そこにあるわけではないからです。

相手に「罵声を浴びせてしまう」ほど怒鳴ってしまう。
それは、相手を個人として認めていないからです。
これが、最大の理由です。

人の人生に、土足で踏み込んでしまう。
人のテリトリーに踏み込んではいけない、
ということを学習していない。相手を人間として、
尊重することを、体験的に、誰からも教えてもらっていない。

それに気づかずに、
「これから、怒鳴らないように、注意します」
と公言して謝罪したとしても、相手の領域に平気で入って、
自分の望む通りにしないと腹が立つというパターンは
変わらなければ、やっぱり、怒鳴りたくなるでしょう。

そんな感情をコントロールして我慢しようとしたとしても
(実際にはコントールなんてできないのですが)、
気がつくと、怒鳴ったり、当たり散らしたりするでしょう。

感情をコントロールできないことが問題なのではありません。

他者の生き方や他者の自由を尊重できずに、
他者を支配しようとすることが、問題なのです。

こんなふうに、私たちの根本の意識の在り方が、自分たちの言動を決
定づけます。

それに気づかない、支配性の強い人たちは、自分が怒鳴っても、
「私は、我慢してやっているんだ!」
と、人のせいにする言い方をします。

まるでそれは、他人のうちに勝手に土足で上がり込んで、
その家の住人にあれしろ、これしろと命令するのですから、
居直り強盗のようなものです。

そんな人たちが言葉で、「以後、注意します。反省しています」
と言っているとしても、
それが嘘だというわけではありません。

けれども、どんなに彼らが神妙な気持ちで謝罪したとしても、
相手の領域に侵入して「それが当たり前」
という感覚になっていれば、
同じことを何度でも繰り返すことになるでしょう。

私たちは、ついつい、人の言葉を信じてしまいがちです。

その言葉に嘘はなくても、根底の意識が変わらなければ、
同じことを繰り返します。

だから、言葉よりも、「行動のほうが事実だ」と言うのです。

だから相手の言葉よりも、その「行動をみましょう」と言うのです。