逃げたらとんでもないことになる?  

こんな質問をいただきました。
『「辛かったら、しんどかったら、そこから逃げればいいじゃない」
といった論調が多くなっている点が少し残念に思いました。
「逃げたらだめだ」という思いが、戦いになる。
そこにこだわる必要はない……のかもしれません。
ですが、悩む人の多くは他に選択肢がなくて、
この状況をなんとかしたいと願っている人の方が多いのでは
ないでしょうか。
例えば、嫌な会社、嫌な人が周囲にいる住居。
それらは自分に合わなくなった環境というのは事実かもしれません。
でも、新たに踏み出した一歩が、確実に自分が幸せになれるという
保証が
どこにあるのでしょう。』

もっともなお話だと思います。
「辛かったら、しんどかったら、そこから逃げればいいじゃない」

この言葉を、一般常識的な捉え方で受け止めれば、
「そんなことをしていたら、社会が成り立っていくわけがない
じゃないか」
と、思ってしまうでしょう。

実は、ある出版社にも、多くの人が、
自分の欲求を満たそうとしていないし、それ以前に、
「自分の欲求さえ気づいていない」
というテーマで企画を提案させていただきました。

その反応が、それほど芳しくなく、逆に、
「自分の欲求がない人なんて、いるんだろうか」
「みんなが自分の欲求通りに動いたら、
とんでもない社会になってしまう」
といった意見で終わったそうです。

これらの意見は、大いに参考になりました。

その言葉を聞いて、逆に私は、
「ああ、やっぱり、自分の欲求に気づいていない人ばかりなんだな」
と確認しました。

だから、人生が苦しくなるんだと……。

けれども大半の人は、そうは解釈しません。

ただでさえ自分に厳しいのに、ただでさえ自分を縛っているのに、
今の人生は厳しいから、さらに我慢しないといけない。
そう思い込んでいます。

こんな企画を出した時期に、こんなご質問をいただく。
こんな共時性は、私にとっては、
当たり前になっているほど当然です(笑)。

私は、こんな共時性は当たり前なほど、意識の力を信じています。

「辛かったら、しんどかったら、そこから逃げればいいじゃない」
これは言わば、意識の「変換」です。

逃げてはいけない。踏ん張って我慢しなくちゃいけない。
これが、
「なんだ、逃げてもいいんだ」
と、そんな自分を認めれば、意識が変わります。

「逃げてはいけない」と「逃げてもいいんだ」では、
心の負荷が全く違います。

この違いは、前者は自分を否定し、後者は自分を認めています。

意識という点では、全く正反対です。

そんな「逃げてもいいんだ」は、やがて、逃げるというよりは、
「何もこんな厳しい方法で頑張る必要はないんだ。
もっと、ラクな方法を考えよう」
となるでしょう。

例えばいま、私は、過労でダウンして、
昨日、今日と、休養しています。
これも「逃げていいんだ」の一つです。

「逃げちゃいけない」あるいは「逃げられない」
という意識でいれば、
それでも、「休息をとってはいけない」。
あるいは、「だったら、すべてやめてしまえ!」
となるでしょう。

過労でダウンしたからといって、セミナーやカウンセリングや
執筆をすべて、やめてしまう、という選択をする、
ということではありません。

過労でダウンしたとしても、休息をとれば、復活できます。
それを理由に、すべてを捨ててしまうほどにはなりません。

極端な結果にならないのは、その時々で、
自分の小さな思いを叶えてきたからでしょう。

むしろ、もっと自分の欲求を優先していいんだという気持ちにさえ、
なります。

「辛かったら、しんどかったら、そこから逃げればいいじゃない」
というのは、こういうことです。

すべてを「ゼロ、100」の発想ではなく、
1パーセントの「辛かったら、しんどかったら、
そこから逃げればいいじゃない」なのです。