考えるよりも「受け入れよう」

自分がやっていることが、好ましくないと感じたら、
どうしても「その原因や理由」を探ったり、
分析したりとしがちです。

けれども、自分の言動を一つ一つ、
適切かどうかと考えながら生きていたら、きりがありません。

自分の言動の、一つ一つを考えて、
「これは、よかったことなんだろうか」
こう感じているけれども、
どうして自分はこう感じてしまうのだろうか。あるいは、
そう感じることは、適切なんだろうか。
もっと、違った感じ方があるのだろうか。

これは、いいことなんだろうか。
これは得することになるのだろうか。
悪いことなんだろうか。
間違っていることなんだろうか。

などと自分に言動を一つ一つ気にしていたら、
その答えを見つけるまで、身動きできなくなってしまうでしょう。

しかも、その基準さえも、非常に曖昧です。
というよりは、自分が何を基準にして「良い、悪い」を
判断しようとしているのかさえ、
気づいていないのではないでしょうか。

そうやって、何の基準も持たずに、
「これは、良いことなんだろうか。悪いことなんだろうか」
「これは、適切なんだろうか、不適切なんだろうか」
などと考えたところで、答えが見いだせるどころか、
まったく意味がありません。

自分が動きたくなかったら、単に、
「今は、動きたくないんだ」
で終わり。

それを、いちいち、
「どうして、自分は動きたくないんだろう」
「どうして、こんなことも、すぐにできないんだろう」
などと、考える必要はありません。

単に、その状態を受け入れるだけです。

そうすれば、
「じゃあ、今は、動くのは、やめとこう」
で終わりです。

そんな自分を、どうして一つ一つ、
あたかも点数をつけるかのようにジャッジする必要が
あるのでしょうか。

これは、何も考えずに「やり放題にやっていい」と
いうことではありません。

もしあなたが、仮に「やり放題にやった」としたら、
後で恐らく何らかの問題が発生するでしょう。

そんな「何も考えないで、野放図に」
ということではなければ、自分があれこれ分析しなくても、
「ああ、そうか」で終わっても、
何も困った問題は起こらないはずです。

むしろ、そうやって、あれこれと、
いちいち自分の言動の理由や原因を
分析しようとすることのほうが、害になる、と思ったほうが、
より賢明だと言えるでしょう。