優しい人が生きづらい社会

相談に訪れる人たちと接しているとき、
「平和でのんびりとした世の中だったら、こんな人が、
人に慕われ、この人のやさしさが世の中を、
さらに温かくしてくれるだろうになあ」
などと思ってしまうことが、あります。

そう思ってしまうほど、今の社会は「優しい人」ほど
生きづらさを覚えて悩んでいるのかもしれません。

優しい心を発揮したとしても、相手に、
それを受け止められる感度がなければ、傷つくでしょう。

「そんなことしてあげたって、相手が気づくわけでもないし」
などと一笑に付されて傷つくこともあるでしょう。

自分に備わっている優しさのほうが
「過敏なのではないか。間違っているのではないか」と、
自分を責めてしまう人も少なくありません。

優しい人たちの受難の時代です。

「自分中心」では、
「自分に優しくしましょう」
と言ったり、
「相手のためではなく、
自分のためにすることに喜びを見いだしましょう」
といった言い方をしています。
その結果が、「相手のため」にもなる、と。

むろんこれは、個人としての基本的な「意識の姿勢」です。

これを基本姿勢として、
「相手と心のギャッチボール」ができれば、
その時間が、とても貴重な心温まる幸せな時間となるでしょう。

けれども、今の社会は、仕組みそのものが、
そんなゆったりとした時間を持つことを許しません。

そのために、ゆったりとした時間があったとしても、
「そんな時間に費やすのはもったいない」
と発想しがちです。

けれども、「そんな時間に費やすのはもったいない」
としたら、いったい、
どこに人と一緒にいることの満足感や充実感や幸せ感が
あるのでしょうか。

心優しい人たちが、
その心を発揮できない時代にだけはしたくないものです。

ただ、「心優しい人」たちにとって、ひとつ、
非常に欠けているものがあります。

それは、「自分の意志をもつ」という強さです。

相手と心のキャッチボールができるには、
「相手の心を感じる」能力が必要です。
言い換えると、これは「共感性」です。

心優しい人は、この「共感性」に富んでいます。

けれども、逆に、共感性が豊かであり過ぎるために、
自分を優先することができません。

ついつい、相手の傷みを自分の傷みとして
感じることができるために、相手を優先して、
自分を犠牲にしてしまいがちです。

そんな「自分の意志」のほうを優先できない「優しい人」ほど、
苦しい立場に追い詰められているでしょう。

もう一つ、心優しい人は、
自分のそんな能力をどちらかと言えば、
評価していません。
人によっては、否定すらしています。

それは、その能力によって傷つくことが、
自分の能力の低さだと思ってしまうからなのかもしれません。

また、そういう人は、相手のへの共感度は
高いにもかかわらず、自分への共感度が低いからでもあるでしょう。

そんな心優しい人ほど、まず、他者よりも、
自分に共感してほしいものです。