「全体を把握してから行動する」の是非  

物事を判断したり決めたりするとき、
「全体を把握しないと、できない」
という人が少なくありません。

確かに、判断材料として全体を把握できていたほうが、
より正確な判断ができるでしょう。

ただ、どんなに全体を把握するために、
それに関する情報をすべて網羅しておきたいと考えたとしても、
その範囲はどれだけでも広げられるために、
「すべて」というわけにはいかないでしょう。

仮にもし、そうやって収集できたとしても、
判断の仕方や決め方は自分次第であって、全体を把握していても、
「なかなか判断できない、決められない」という人たちもいます。

「果たして、これでいいんだろうか」
「もしかしたら、もっと違った選択があるのではなかろうか」
といって、何を選択しても迷う人もいて、
全部を把握して決めたとしても、
「これでいいんだ」
と言えない人もいるでしょう。

どうしてそうやって「全てを把握してから」というふうに考えるのか。
また、仮に全体を把握できたとしても、
迷ってしまうのか。

一つは、それは、責任をとることを恐れているから、
ということが考えられます。
自分の責任を、具体的に捉えることができない人は、
責任をとることを恐れるのも無理ないことです。

自分に自信を持てない人は、どんなに全体を把握したとしても、
決めることができないでしょう。

仮に、全体を把握できたとしても、
自分のフィルターが偏っていれば、最初から、
情報の集め方が偏ります。
集めたものを「取捨選択する」ときも偏ってしまうでしょう。

どんなときにも自分に根付いている「根底の意識」から、
物事を見ます。
そのフィルターを通して物事を選択したり判断したり
決めたりするために、結局は、
同じ結果となる確率が高くなるでしょう。

結果が、その選択の是非を物語っています。
だから、それを選択したときに、
「その結果どうなるか」のほうが、大事だと言うのです。

むしろ、「全体を把握してから」という発想は、その多くが、
自己管理能力、判断能力、決断能力、とりわけ「対処能力」の
乏しさをあらわしています。

実際に、全体を把握してからという発想では、結局、
スッキリと決められず、決めてもやっぱり迷っているでしょう。

対処能力がある人であれば、「全体を把握してから決める」
という発想はしません。

どうしてでしょうか。

それは、一つのパターンは、あらゆることのパターンでもある、
ということを、(無意識的にも)知っているからということが一つ。

また、「一つの小さな行動をする」だけで、
全体が変わるということを、経験的に知っている、
ということだからです。

ですから、「全体を把握してから」という発想は、
「一つの小さな行動をする」ことをしていない。もしくは、
自分の一つの行動の結果に注目していない、
ということになります。

頭で考えて「全体を把握してから行動する」よりも、
自分の小さな一つの行動の結果がどうなっていくか、
のほうがより現実的ですし、こんな行動が対処能力を育てるのです。

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