自分と向き合うということの意味 

心の中に迷いがある人ほど、約束に遅れたり破ったり、
キャンセルしたりドタキャンを繰り返したりしがちです。

絶えず迷ってしまう人に共通するのは、もちろん、
自分の判断に自信がもてないということだと思います。

また、頭の中で「損得に走る人」もそうですね。

あるいは、「自分の感情を優先できない人」だったり
自分の感情にすら、気づけずにいて、
知らずのうちに自分の心にそぐわないことを
してしまう人たちもそうでしょう。

セミナーやカウンセリングなど、
自分と向き合うことを恐れている人は、
たびたびキャンセルやドタキャンをしてしまうでしょう。

前記したことを一つ一つ、取り挙げて語ることができますが、
今回は、この「向き合う」ということについて
お話しししたいと思います。

そんな恐れを抱いているという理由から
ドタキャンやキャンセルを繰り返す人たちは、
「向き合う」ということの意味を大きく勘違いしています。

それは、自分の悪いところを直視して、
自分がどんなにひどい人間であっても、
どんなに劣っている人間であっても、それに耐えて、
自分のほんとうの姿と直面しなければならない、と思っています。

一般的な言い方では「非常に劣等感が強い」
ということになるでしょうか。

自分に対する評価が非常に低く、
能力のない自分。
劣っている自分。

そんな自分の一つ一つを、
「これはダメで、あれもダメだ」
「これできない、あれもできない」
などと具体的に挙げていって、自分を否定していくことが
「向き合う」ことであるとしたら、とても怖くてできないでしょう。

そんな「ほんとうの自分?」を知った途端、
絶望してしまうかもしれないというほどに自己否定が強かったら、
怖くならないわけがありません。

そんな自己否定することが「向き合う」ということだとしたら、
自分と向き合ったとき、さらには、
ダメな自分には「厳罰を与えなければならない」
ような気分になってしまうでしょう。

向き合うことを恐れる。
そうやって向き合えない自分を、
さらに「ダメだ」と否定する。
いざ向き合うと、ダメな自分が自覚されて、
いっそう自信がなくなってしまう。
さらには、そんな“間違っている自分”を否定すれば、
その罪悪感から、「厳罰を与えなければ」
という気分になってしまう。

仮にもし、それができなければ、
さらに「そんな弱い自分」を否定したくなるというふうに、
どこまで言っても自己否定の泥沼へと入り込んでしまうでしょう。

もちろん、そうやってどんどん自分を否定してしまうのは、
そもそも「向き合う」
ということを甚だ(はなはだ)勘違いしているからです。

「向き合う」というのは、自分のダメなところ、
劣っているところなどを探し出して、
自分を糾弾したり、裁いたり、罰を与えることではありません。

あるいは、それを発見したら、
強制的にそれを矯正することでもありません。
矯正できなければ自分を責める、
ということでもありません。

ほんとうは、自分自身を愛するために、
ということが「向き合う」ということなのではないでしょうか。

そこに、自分と向き合う意味と意義があります。

自分がダメだと思うところは、実は、
「自分を愛し足りない」ところなのです。

自分と向き合わなければ、
「自分を大事にすべきところ」もわかりません。
それを発見するために向き合うのです。