人の幸せが許せないという気持ち

一般的には、自分のしたことで相手が喜んでくれれば、
「相手に協力できてよかった」
「相手が喜んでくれて、よかった」
というふうに、自分も嬉しくなるものです。

けれども中には、
「相手が喜んだり、幸せそうにしていると、腹が立ったり、
憎々しい気持ちが湧いてくる」
という人たちもいます。

そんな人たちは、育成歴の中で、非常に傷つけられたり、
踏みつけられたりしてきた人たちでしょう。

そのために、「被害者であり続けてきた人」でありまた、
現在でも「被害者であり続けている人」です。

自分が被害者でありつづければ、人が幸せだと、
それすらも許せなくなってしまうでしょう。

ただ、過去には被害者であったかもしれないけれども、
現在はそうではない、という場合も少なくありません。

場合によっては、「過去には確かに被害者であった」
かもしれませんが、今は逆に「加害者になっている」
こともあります。

自分がされてきたことは、多かれ少なかれ、他者にしています。
それは「ポジティブなことであれ、ネガティブなことであれ」です。

主に家庭環境で自分が経験したことを学習するので、
立場が逆転すれば、されたことを同じようにしてしまうのは、
当然のことだと言えるでしょう。

そのために、自分が被害者意識から解放されていないと、
加害者でありながら、被害者意識を抱いたまま、
人に対して腹を立てたり、憎んだりしてしまうでしょう。

場合によっては、自分にとって大事な人であるにも関わらず、
その人が幸せになることが許せないという気持ちが湧いてくることも。

無自覚でいると、過去につらかったから、
今こそ幸せになってもいいのに、相変わらず、
被害者であり続けようとする人たちが少なくありません。

それは、無意識に、「自分が幸せであってはいけない」と、
頑なに信じているからというのが理由の一つです。

自分ではそのつもりではなくても、経験的な実感から、
被害者の呪縛から自分を解放することができないでいるのです。

そんな人たちは、人の幸せを喜ぶこともできませんが、
自分が幸せになることも許していません。

そんな人たちに最も欠けているのが
「ポジティブを実感する」ことです。

ポジティブな経験が少なければ、
ポジティブを感じる感度を育てることもできません。

そんな人はまず、もっともっと、
「自分を愛すること」のほうに焦点を当てる必要があるでしょう。

そして、自分の心に寄り添ったり、いたわったり、
自分の願いを叶えてあげましょう。

もちろん、その方法がわからない人たちもいるでしょう。

もし、自分が知らないのであれば、
その方法やスキルを学ぶことです。

人を恨んで生きるのか。それとも、
自分が幸せになると決断するのか。

そのために、幸せになるスキルを学ぶかどうかは、
誰でもなく、自分自身の「問題」とすべきでしょう。

「幸せになるにも、そのスキルを学ぶ必要がある」
と、しみじみ思ってしまう今日この頃です。