スマホを拾ってあげて文句を言われた

スマホを落とした人がいたので、それを拾ってあげたら、
その相手に文句を言われた、という記事がありました。

その理由は「液晶画面」を触るなんて、非常識だ、
ということだったようです。

拾ってあげた人は、文句を言われたことで傷ついたものの、
「そうか、触るときは、枠を握るべきなんだ」
と反省したとあります。

そのコメントが、
「拾ってあげた人にお礼を言わずに、文句言うなんて非常識」
という人もいれば、
「文句を言われてもしかたがない」
という人もいました。

もちろん圧倒的に多かったのは、「お礼を言わないなんて」
という意見でした。

ところで私は、どうしてそんなにスマホの画面を触るのが、
「文句を言われるほどいけないことなのか」と疑問を抱きました。

それも当然といえば、当然です。
私が持っているのは、ガラ系だからです。

スマホやiPhoneをお持ちの方々だったら、
画面に触れるということがどういうことなのかおわかりでしょう。

ただ、「他者中心」の思考タイプだと、視野が限定されていて、
自分の“物”だけに焦点が当たるので「文句を言いたくなる」
反応になりがちでしょう.

自分の意識の根底が、相手の否定的な面しか
見えないでしょう。

自分中心をめざせば、自己肯定感はどれだけでも
高くしていくことができます。

自分に対する肯定感が高ければ、戦う意識が減っていきます。

そのために、相手の「善意」を感じることができるでしょう。

相手の心に焦点があたるのです。

共感能力が高くなるので、拾ってくれた「善意」に、
感謝の気持ちが湧くでしょう。

それは、自分中心であれば、「その未来」も予測できるからです。

なくなってしまえば、探す手間もいります。
善意の人に拾われず、「悪意の人」に拾われればどうなっていたか。
悪用されれば、どうなっていたか。
同時に無意識がそれを想像できるので、
「いっそう、助かった」という気持ちが湧くでしょう。

拾ってあげる側としては、もちろん、落とした相手に、
声を掛けるだけにして、自分では拾わない
という選択の仕方もありますし、
最初から無視するという選択もあります。

どちらの立場にいても、「自分がそのとき、どうするか」で、
自分がわかります。

いずれにしても、自分の意識は、あらゆるところにあらわれます。
そんなパターンの蓄積が自分の人生となるのですから、
自分中心の意識と他者中心の意識とでは
人生が正反対になっていきます。

自分では、自分を肯定しているのか、否定しているのか、
その分量はわからないかもしれません。

けれども、気づいていてもいなくても、いかに自分を
肯定しているか。
それによって、未来も自動的に決まっていくのです。