扇動する人、される人(2)

例えば、Aさんが、みんなに分けるつもりで、
Bさんに、甘い飴を差し出したとしましょう。
Bさんは、自分が得られないことを恐れています。
(こんな恐れの中には、戦う意識が潜んでいます。
少なくも、他者に対して不信感を抱いているでしょう。)

Aさんは、Bさんが、みんなのことも考えて、
それに配慮した量をとってくれるものと思っていました。

お人好しのAさんは、自分のものでありながら、
まだ、自分の飴を確保してもいませんでした。

けれども「うかうかしていると、得られない」と
信じているBさんは、人のことが目に入りません。

確実に自分のものを確保しておこうと、
飴をわしづかみにしました。
その結果、自分に回ってこなかった人たちが、腹を立てます。

あるいは、そんなBさんをみて、
自分に回ってこないかもしれないと恐れた人は、
Bさんのようにわしづかみにするかもしれません。
こうなったら、飴の奪い合いになるのは必至でしょう。

自分のものを確保していなかったAさんも、腹を立てるでしょう。

冷静に考えればわかることですが、
自分の中に強い恐れがあると、
自分のやっていることにまったく気づかないのです。

こんな言動パターンは、
小さな出来事も大きな出来事も変わりません。

戦争に巻き込まれないようにと「恐れを抱く人」ほど、
徴兵制度や軍拡を受け入れてしまうでしょう。

「じゃあ、戦争になっても、無抵抗でいろというのか」
といった、極端な主張したいわけでもありません。

何も一足飛びに徴兵制度だ、軍拡だと声高に叫ぶ前に、
戦争にならないためにできる努力もあるはずです。

扇動に乗らない知恵をもつ、というのもその一つでしょう。

ところが、恐れを抱く人ほど、
いろいろな扇動にたやすく乗ってしまいます。

過去の戦争も、戦争にもって行きたい人たちがいて、
それにやすやすと大衆が乗っていった。
恐れを煽る人がいて、煽られる人がいる。

あらゆる出来事が、こんな「関係性」で成立していくのです。

「恐怖」は、私たちの目を曇らせます。
「恐怖」は「恐怖」を生みます。

恐怖を抱いたとき、まず簡単にできるのは、
「これは、本当の恐怖ではない。
私が思考で作り出した恐怖なのだ」
こんなふうに呟くだけでも、
ちょっと冷静になれるかもしれません。

「恐れ」を抱かないほど、適切な判断ができるのです。