すでに「壊れつつある社会」 

※4年前のデータです。

日本の高校生は外国と比べて非常に自己肯定感が低いことが
分かりました。

「国立青少年教育振興機構」青少年教育研究センターでは、
平成30年3月30日(金)に、文部科学省記者室において
「高校生の心と体の健康に関する意識調査
―日本・米国・中国・韓国の比較―」をプレスリリースしました。

日本の高校生は外国と比べて非常に自己肯定感が
低いことがわかったと言います。

その調査の中で、国立青少年教育振興機構が
アメリカや日本、中国、韓国の高校生・計8840人を
対象にして調査したところ、日本だけが44.9%と
非常に低い水準になったとのことです。

とりわけ、「自分に満足している」、
「つらいことがあっても乗り越えられる」
という質問に対する回答でも日本が圧倒的な最下位だったと言います。

もう、ここまで来てしまったのかという
暗澹たる気持ちになってしまいます。

予測できていたことではありますが、
ここまで急速に進んでしまうとは……。

こんな社会意識がこのまま進んでいけば、
「感情を抱くことは罪で、逮捕されて処罰される」
というSF映画の世界が現実になってしまうのではないか
という危惧を抱いてしまいます。

「個」が、「個である」ことを否定する社会。
すでにそんな社会になりつつあります。

常々言っているように、
「思考」から入って「~しなければならない」
という生き方をすれば、できないことは、
すべて「失敗」という認識を抱きます。
あるいは、「しなければならない」ことをできないと、
自分には、能力がないというふうにも思い込むでしょう。

それが高じれば、失敗することを恐れて、
「上の言うことに、黙って従っていたほうが、安全だ」
ということになってしまいます。

こんな発想は、「全体主義」につながっていきます。
すでにそんな意識がすでに蔓延してしまっているのかもしれません。

この「安全」というのは、実は、「安全」というよりは、
「逆らうと怖い」ということのほうが真相なのではないでしょうか。

従うばかりで、逆らった経験がなければ、怖いと感じるでしょう。
あるいは、「反抗した」ために、叱られたり、
トラブルや争いが起こったりするという経験があれば、
いっそう「逆らうと怖い」と感じるでしょう。

本来、「逆らうこと」と「自由であること」とは、
まったく別ものなのですが、自由は、同時に、
言うことに逆らうというふうにも思い込んでしまっています。

「自由」は、他者と争いません。
「逆らう」は、他者と戦います。

この違いを知らないと、自由であることは戦うことだからと、
恐れを抱くようになるでしょう。

確かに、そうやって従順に従っていれば、最低限の安全は、
もしかしたら確保されるかもしれません。

けれども、そんな隷属の中には、喜びや満足や幸福感はありません。

こんなポジティブな実感は、自己肯定感と同質のものです。

なぜなら、こんなポジティブな実感は、
「自分の気持ちや感情や欲求」を
基盤としなければ生まれないものだからです。

それらが乏しければ、それに比例して
「自己肯定感」が下がるのは、当たり前なのです。
だから、日本の若者の「自己肯定」が“最低”なのは、当たり前なのです。

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平成30年(2018年)のデータですから、あれから4年経っています。

当時より、いっそう自己肯定感は、
低くなっていると推測できます。
なぜなら、前記しているように、
こんなポジティブな実感は、「自分の気持ちや感情や欲求」
を基盤としなければ生まれないものだからです。

自分の気持ちや感情や欲求が乏しければ、
満足感や充実感も乏しくなります。
言うまでもなく、「愛」には、こんなポジティブ実感が不可欠です。

自己肯定感も愛も、言葉が異なるだけで、
同じことを言っています。
以前、自己肯定感に関する本を書いたことがありました。

当時、自己肯定感が話題になって時期がありました。

でも、奇妙なことに、いつも売れる本が登場すると、
未来においては、
その反対になる、という現象が起こります。
まるで、未来を予知しているかのように。

だから当時、こんな類いの本が売れるとしたら、
未来は逆に、自己肯定感が失われる時代になるだろうと、
予測しました。

まさに、それがいま、実現しているかのようです。