だんだん監視されることに慣れてきている

以前、街に防犯カメラの設置が増えているという話を
したことがあります。
その当時、防犯カメラではなく、私自身は「監視カメラ」と
呼んでいました。

防犯カメラという呼称だと、なんとなく、「住民の立場に立って、
住民を守ってくれている」という印象を与えます。

他方、「監視カメラ」という呼称は、「誰かが、住民の行動を
監視している」というような印象を与えます。

この監視カメラが、すぐさま、新幹線や特快電車等に設置される
ことになりました。

国民を監視するというイメージが強いため、
多くの人が反対するだろうなと思ったのですが、当時、
あに図らんや男性陣としては歓迎するという声も多くありました。
痴漢扱いされるために、満員電車の中では、
両手でつり革につかまったり腕組みをするという男性も
いるといいます。
「これで、痴漢扱いされても証明できる」
ということで、賛成する男性が多かったのでしょう。

それはともかくも、私自身は「防犯カメラ」という言葉が、
いつの間にか「監視カメラ」という言葉に置き換わりつつある
ことに驚きを禁じ得ませんでした。

私たちがすでに知らずのうちに、「監視される」ということが、
通常のことのように思い込み始めている証左のような気がした
からでした。

私たちが監視されることに、疑問を抱かなくなっていく。
あるいは、そうされることに次第に慣れてしまっていく。

それは自ら、檻に入ろうとする意識です。

監視カメラだけではありません。
こんなふうに、様々な出来事が起こる度に、
それを予防するという名目で「~をしてはいけない」条項や
「~のための」条項が決められていき、結局はそうやって、
じわじわと自らの首を絞めるような禁止や違反の決め事や事が
多くなっています。

どこかでこんな流れに歯止めをかけないと、私たちの生活は、
どんどん不自由になっていくでしょう。

その一方で、「自由である」体験が乏しい人たちは、
その「自由」が怖い、という人たちも確実に増えています。

「あなたの自由ですよ」と言われると、どうしていいかわからない。
何をしていいかわからない。責任をとるのが怖い。
考えるのもつらい。不安に感じる。
だから、だれか「自分に指示してほしい」。
こんなふうに思ってしまう人も少なくありません。

他者中心であればあるほど、
「自由である」ことに不自由さを覚えるに違いありません。

自分が自分であることの証明であるとも言える自由が
奪われてしまえば、どうなっていくか想像できるでしょうか。

「自由である」という基本的なことが、
次第に、当たり前ではなくなってきています。

やがては、「不自由である」ということさえ、
気づかなくなっていくかもしれません。
それでも、自分自身が自由でなければ、気づかなくても、
“心が苦しく”なります。

苦しく感じる自分がいるとき、それは、自分が不適切なのではなく、
その苦しさが、「自由でない」ということの印です。

だからこそ、常に自覚して、物事を「個の自由」
という視点から見る目を失わないでいる必要がある、
という時代に、私たちは生きているのです。

自由であることを心から望まないと、
監視社会は、もう、目の前の迫っています。