許すこと《3》

 自分が許せないと感じているにも拘わらず「自分では許したつもり」
でいることのほうが厄介であるし罪作りである。
 なぜなら、許したつもりでいても、無意識のところでは、その許せ
ない感情を持て余して、どこかで誰かに無意識に、必ず復讐している
からである。
 この、「無意識に」というのが曲者(くせもの)である。

 自覚していれば、仕返しをしたければ、少なくとも自覚しながら仕
返しする。
 自覚していてもしていなくても、いずれにしても、人というのは、
傷つけられたら、その帳尻合わせをするかのように、どこかで仕返し
してしまうものなのだ。
(それは、話が逸れてしまうので、ここでは詳しく述べないが、あら
ゆる人が、自分の意志や生き方を尊重したいと、心から望んでいるこ
とにも通じるから、決して、復讐心が悪いというつもりはない。)

 これは実は、反対の言い方もできる。それは、
「復讐したいけれども、自覚していると、後ろめたい。でも、気づか
ないところで復讐すれば、後ろめたさを自覚しないで復讐できる。な
ぜなら、それは私がやったことではなくて、無意識が、私の知らない
ところで勝手にやったことだから、私には責任がない」
 と自分に言い訳ができるからである。

「後ろめたさを自覚したくないので、無意識のせいにして、復讐を
果たす」というふうに、実に巧妙な知恵を働かせることができるのが、
良くも悪くも人間の意識なのである。

 だから、自覚できずに仕返しするより、自覚して仕返ししているほ
うがまだ、意識レベルは高いといえるだろう。
 むしろ、そんな感情を抱いている自分を、自覚できる人のほうが優
れている。

 何故、そう言えるのだろうか。
 自覚できるというのは即ち、自分と正面から向き合うことができる
ということだからである。
 自覚したとき、復讐するか、やめるか、どちらかを考えることがで
きる。客観的に、復讐してしまった後の予測を立てることもできる。

 いつまた、責任ということについては、詳しく述べることもあるだ
ろうから、ここでは省略するが、「復讐する」ことと、「責任を追求
する」こととは、まったく意味が違う。自分に関していえば、前者は、
自分が自分の価値を低めるが、後者は、自分が自分の価値を高める。

 だから、「許せない」と自覚できれば、陰で復讐を果たそうとする
よりは、「ちゃんと、責任を突き付けていこう」という気持ちになる
だろう。(続く)