許すこと《5》

相手とトラブルが起こったとき、
「あの人は、私に気づかせてくれるために、わざわざ(トラブルを起
こして)怒鳴ってくれたのだから、それは、ありがたいことなのだ」
 というような言い方をする。だから、感謝なのだと。
 宗教関係の人たちの中に、こういう発想をする人が少なくない。

 もちろん、心からそう思えるのなら、素晴らしいことだろう。
 しかし本当に、自分が心からそう思って許しているのだとしたら、
まず、相手のことや、その出来事すら意識にのぼらないほど、心に引っ
掛からないだろう。
 心から許しているとしたら、その出来事を思い出しても、心が大き
く動いたり、かき乱されたりはしない。

 だから、もしその人が、
「私に気づかせてくれたのだから、感謝しなければいけない」
 とつぶやいているとしたら、それは許していない証拠だといえる。

 実際には、「許さなければならない」と発想する裏には、「主張を
恐れる」自分がいたりする。
 心から許していなくて、我慢しているだけだとしたら、当然、それ
にこだわる。
 こだわれば、それが煩悩となる。

 ちゃんと言葉で伝え合い、理解し合い、それぞれの責任も果たし合
う。そんなプロセスが過ぎていく中で、徐々に「許せる」ような気持
ちが芽生えはじめる。
 それぐらい、傷ついたら、心から許すのはむずかしいものなのだ。
 まして、自分から能動的に働きかけもせず、何も言わず、行動もせ
ず我慢したままで、心から許せるわけがない。

 だから、相手を無理に我慢して許そうとするのではなく、
「相手を心から許せるようになるために、どうするか」
 という発想をしてほしい。
 この「どうするか」というのは、自分自身の「発信」や「行動」を
意味する。

 恨んでいると、自分がつらいから、その感情を手放すために行動す
る。
 相手を許したほうが心が楽だから、相手を「許す」ために、能動的
に行動する。
 相手が責任をとっていないのなら、その責任を、しっかりと突き付
けていく。
 時間をかけても実行する。

 相手を許すためには、「許す」ための能動的な作業が必要だ。
 そして、このように相手を許す作業に時間をかけることが、同時に、
自分を癒すための作業となるのである。