自分を愛するか、相手を愛するか(5)

「相手の家に泊まる」という、まったく同じ状況がある。
 それが、親しい親友同士だと、
「会えて嬉しい。泊まってくれて嬉しい」
 親戚づき合いだと、
「きつい、苦しい」
 となる。

 もちろん、嫁姑の問題も、「自由と善意や愛情」があれば、うまくいくだろう。
 それをむずかしくするのは、
「嫁だから、姑だから、長男だから」
 という意識。

 これをいったん、取り除いてから「選択の責任」で行動してみると、どうなるだろう。

 それこそ家庭の在り方はさまざまで、
「婚家に尽くすのが嫁の役目、当たり前」
 とばかりに、妻というより、嫁意識が強い妻がいる。

 かと思えば、結婚して〇〇年にもなるのに、いまだ、夫にとっての家庭は、「妻がいる家庭」より、実家のほうをファミリーだと思っている人も少なくない。

 当然のことながら、その反対もあり得ることで、妻のほうが実家と密着していて、夫は「収入源」や「種ウマ」の存在でしかない、という夫婦も最近増えてきた。

 いったい自分のファミリーはどこなのか。

 夫の古いファミリーに、妻が嫁として属するのか。
 妻の古いファミリーに、夫が婿として属するのか。
 それとも「新しいファミリーに夫と妻があり、これが家族」なのか。
 家長制度はとっくに(形の上では)崩壊したのに、違った形で、夫が、あるいは妻が、生家から離れようとしない。こんな傾向が、いっそう顕著になってきている。

 基本は、
「妻と夫と、新しいファミリーを築く」
 要は、この意識が、あまりにも希薄……。

 基本、軸がしっかりしていなくて、誰が他の人を愛することができるだろうか。

 私を愛することができるから、相手を愛することができる。
 夫婦が信頼し合えるから、両者の「元家族」を大事にしたいという気持ちが出てくる。

 この意識を夫と妻が持って、これを軸にできれば、そこから信頼が生まれ、お互いの「元家族」を大事にしようという気持ちが芽生えると、私は思うのだけれども、いかがだろう?

 その選択肢として、前回書いたように、
「それぞれが、それぞれに、自分の家に帰る」
 こんな選択をするのもいい。

「お互いが、お互いの実家に、それぞれ帰る」

 そんなことをしたら、とんでもないことになってしまう。
 と言うのは、「頭で思う」こと。

 実際に、そんな「嫁・婿」から解放された気持ちで実践してみると、どうなるか。

 実行してみると、身勝手になるどころか、心が自由になって、相手に対してもやさしくなれる。

 それを実感してほしいと思う。
 ここが頭で理解することと、実践してみることの違いである。