好き嫌いで決めたら誰もいなくなる

 好き嫌いで決めていいんだと私が言うと、
「好き嫌いで決めてたら、誰とも付き合うことができなくなってしまいます」
 と答える人が少なくない。

 好き嫌いで決めていたら、どんどん友達がいなくなってしまう?

 もしあなたがそういうふうに考えるとしたら、心の中で想起しているのは、嫌いな人ばかり?
 あるいは、
「私の周囲の人は、私が嫌になってしまうようなことばかりをする」
 ということになるだろうか。

 それはすでに、その人自身が、心の中で、「私は好きな人が誰もいない」と告白しているようなものである。
 あるいは、自分が理想とする「完璧な人」をイメージして、その「完璧な人」と比べて、誰も好きになれる人はいない、と言っているのかも知れない。

・嫌いな人とも仲良くしないと、独りになってしまう。

・「好き嫌い」を基準にしたら、誰もいなくなってしまう。

 嫌い→関係を断つ→誰もいなくなってしまう

 確かにこの論法で言えば、誰もいなくなってしまうだろう。
 しかしこれは、あまりにも結論を飛躍させた考え方である。

 では、なぜ、こんなふうに結論を飛躍させてしまうのか。
 まさにこれが「他者中心」の“思考”だといえる。
 他者中心であるがゆえに、物事を大ざっぱに思考する。
 そして、その思考から導いた結論を元にして、「嫌いな人とも仲良くしなければならない」と自分に強要し、そして、感情を抑え我慢して付き合う。

 「他者中心」だから、そうやって感情を抑えながら自分を縛るから苦しくなっているのだと、気づかない。
 もちろん、「好き嫌い」で生きることにも、恐れを抱く。

 こんなとき、自分中心であれば、もっとこまやかであるし、もっと具体的に捉えるだろう。それは、自分中心であるために、物事をもっと詳細に見る眼が育ってるからである。

 だから、ゼロか100のような発想で、「好き」、さもなくば「嫌い」と言う極端な分け方はしない。
 〇〇さんの、Aの部分は好き。Bの部分は普通。Cの部分は嫌い。
だから、このCの部分が解決すれば、〇〇さんを好きでいられる。あるいは嫌いにならない。あるいは「普通の人」として付き合える。

 だから、このCの部分を、
「どう解決すればいいだろうか」
「どう働きかければ、解決するだろうか」
「どう対処すれば、私が楽でいられるだろうか」
 などと発想をする。

 このように、「感情を基準にする」というのは、決して「好きか嫌いか」の二分化思考ではなくて、もっと小さなところでの好き嫌いに気づくということである。
 そしてその「小さな好き嫌い」に対して、早目に解決する、ということである。
 〇〇さんのCの部分が解決すれば、「〇〇さんとも仲良くできる。
あるいは、嫌いではなくなる」となって、「好き嫌い」を基準にしたら誰もいなくなってしまう、ということにはならないはずである。