彼をゲットするには 2

 自分中心でも、「彼が日曜日には会わない」というのであれば、それが前提となります、という言い方をしたりします。
 でもそれは、「相手に合わせる」こととは、違うのです。

「日曜日には会わない」と言う彼に、自分を合わせるのは他者中心です。
 けれども、「日曜日には会わない」と言う彼を前提とするのは、自分中心です。

 どこが違うのでしょうか。

「彼に合わせる」だと、自分が納得していないので、彼に合わせながらも、そうすればするほど、「彼に合わせなければならない」という意識から、惨めになっていって、どんどん彼を責めたくなっていくでしょう。
 彼に「そうさせられている」という意識です。

 他方、「彼が日曜日には会わない」というのを前提とする、というのは、そんなことを言う彼と「私は付き合う」という、自分の能動的な意志があります。
 その中には、覚悟があります。
 その責任は、彼にあるのではなく、自分にある、という自覚があります。
 
 そんな能動的な意志を持っていると、彼に対する行動も、違ってきます。
 
 日曜日になったら、彼のことが気になります。これは同じでしょう。
 
「日曜日に会わない」と言う彼を、「日曜日に会ってもいいよ」と言わせる方向に持っていくのが自分中心ではありません。

 難しい問題に取り組む必要はありません。

「日曜日に会わない」と言う彼に、「合わせなければならない」という発想をすれば、他の場面でも、彼に合わせようとするでしょう。

 ところが、「日曜日に会わない」と言う彼を前提とする「自分中心の意識」の場合、他の場面での、彼との付き合い方が変わります。

 例えば彼が、「月曜日に会おうよ」と言ったとき、彼に合わせてしまう他者中心の人は、別の人と約束していても、彼のために、その約束を反故にしてまで、彼と会おうとするでしょう。これは、別の人に対しての責任放棄です。
 
 他方、自分中心の人は、彼が会おうと言っても、別の人と既に約束していれば、彼よりも、約束のほうを優先するでしょう。それは、約束した「責任を果たす」ということです。
 もちろんこれは、「彼に対する仕返し」のつもりで、そうするわけではありません。
 自己信頼を守る「私のための行為」です。
 自分が罪悪感を覚えないための行動です。

 彼に合わせる「他者中心」と、そんな彼を前提とする「自分中心」では、こんなふうに責任のとり方も違ってきます。

 こんなふうに、「自分中心」で自分を大事にしていけば、彼も、次第に育ってきて「日曜日に会おうよ」と言うようになるかも知れません。
 あるいは、こんな彼よりも、もっと自分を大事にしてくれる人と付き合おうという気持ちになるかも知れません。そのときは、まさに「お互いを大事にし合える人」と出会うに違いありません。 (おわり)