感じないと、自分を守れない(1)

 

「感じること」が、これほど疎かにされている時代はない
のではないか、と思ってしまいます。

テレビでは、チャンネルを操作すれば、
どこかで「食べる番組」を放映しています。
レストランで食べる。
旅館で食べる。
ホテルで食べる。
港で食べる。
山で食べる、川で食べる等々。
確かに見ていると、そこに行って食べたくなります。

とは言え、その姿を目にしても、
さほど「深く味わいながら食べている」ようには思えません。

何だかそれはカメラで「さまざまな料理」を
連写しているようで気忙しさで、
その味を味わう間もなく、
次から次へと胃袋に詰め込んでいるような気分になってしまいます。

これらも、「感じていない」ことの現れのように見えてなりません。

誰もが幸せになることを、願っているでしょう。
けれども、やっていることは、「幸せにならない」ことだらけです。

例えば、
「傷つきたくないから、感情なんて、感じないように
なったほうがいい」
と言った人がいました。

「でも、幸せになりたい」
と。
矛盾しています。

論理的に考えれば、誰もがわかることだと思います。

「誰かが愛してくれれば、幸せになれる」
そう信じている人たちが、少なくありません。

でも、どんなに愛されても、当の本人が
「その愛を、感じられない」としたら、
どうでしょうか。

幸せを感じる。
満足感を覚える。
充実感を味わう。
楽しいと感じる。
嬉しいと感じる。
愛を感じる。

これらは、すべて、「自分が感じる」ことだし
「自分が実感する」ことです。

幸せであるかどうかは、ひとえに、
自分の感じ方の感度にかかっています。

同じ出来事であったとしても、
自分が幸せを感じる感度がレベル1とレベル10の人とでは、
10倍の差があります。

傷つくことを恐れるあまりに、
感情を解放しようとしない人たちが少なくありません。

けれどもそれは、同時に、
ポジティブな感情も感じないということです。

言わばそれは、幸せになることを、
拒否しているとも言えるでしょう。

感じることを拒否して、幸せになろうとしても、
幸せになる日は決して訪れないでしょう。   つづく