ルールで決めれば世の中はよくなるか?

ルール、規則とういのは、できるだけ少ないほうがいいと思っている。

「悪い人はどんどん取り締まるべきだ」
という発想は、一見、悪い人間が世の中から減るように感じる、
かもしれない。
犯罪を犯す可能性のある人間には、
追跡できるマイクロチップを埋め込むべきだと、
堂々と公言した女性議員もいる。

もしかしたら、それを
「そうだ、そうだ。安全のために、そうすべき」
と言いたくなる人もいるかもしれない。

平面的な見方しかできないと、そんな思考になるだろう。

けれども、もしそれが施行されたとき、自分自身が、
その「犯罪を犯す可能性のある人間だ」と、
決して判定されることはないと断言できる人間が、
どれだけいるだろうか。

決して判定されることがないと断言できる人間たち。
それは、それをつくり、施行するように指示できる者たちのみ、
ということになる。
それ以外の人間はすべて、「対象者」となるだろう。

それが、例えば「愛し合わなければならない」
「美しい日本を作らなければならない」
という美しいルールであったとしても、それを規則とすれば、
それに縛られることになるし、
他者に対しては、それで監視し合うことになるだろう。

愛し合わなければ、罰を受けるという縛りの中で、
どうやったら愛し合えるのだろうか。

貧しいから犯罪が増える。だから、取り締まる。
さらに貧しくなって、犯罪が増える。さらに規則を増やし、
厳しく罰する。
そうなればなるほど、社会は劣悪化していくだろう。

しかし、そもそも、どうしてそうやって、厳しい規則やルールや、
それによる厳しい罰則が必要であるかのように
錯覚していくのだろうか。

例えば、誰もが、持ち家があって、庭や畑があって、
労働時間は短くて収入も十分にあって、家族でゆっくりとのどかに、
平和な気持ちで過ごせる社会だったら、どうだろうか。

そんな社会だったら、ルールや規則で縛る必要があるだろうか。
そんな社会だったら、犯罪は増えていくだろうか。

本当は、人を取り締まるルールや規則がもっと必要だと
錯覚してしまうような、社会構造そのものが、
問題なのではないだろうか。

戦う意識が強かったり、平面的な見方しかできないと、
「自分が適切だと思ったこと」が、自分の首を絞める結果となる。

そうならないためにも、何が正しいか、何を選択するかは、
頭で考えるより、「心と体で感じる」ことである。