理解し合うための「選択の責任」 

自分中心の基本概念の中で、「選択の責任」の捉え方ほど、
その解釈に幅があり、レベルの差があるものはないかもしれません。
「選択の責任」の質のレベルは、心の自由度のレベルと関係があります。

夫がそれを好きでするのは「夫の自由」だと言うのはわかります。
けれども、夫がそれをすることが、妻にとって「不快」であっても、
「やめて」と言えないものなんでしょうか。
簡単にまとめると、こんな内容の質問をいただきました。

まず、どうして、夫は妻の嫌がることをしてしまうのか、
ということです。
明らかに妻が嫌がるとわかっているのに、夫がそれをするとしたら、
すでに夫は、妻に対して仕返し的な気持ちもあって、
それをやめようとしない、ということになるでしょう。

妻に対して否定的な気持ちを抱いているとしたら、そんな妻が「やめてよ」と言えば言うほど、やめないでしょう。

なぜなら、言う通りにやめてしまえば、それは、
言わば「嫌な妻に従う」ことになってしまうからです。

そもそも「妻の嫌がることをする」
という方法で抵抗しているのですから、やめるわけがありません。
むしろ、妻が嫌がることをやめないことが、
“無意識の仕返し”にもなるのですから。

このとき、夫が自覚してやっているのか、無自覚にやっているのかは、関係がありません。
「意識」という世界からみて解釈すると、本人が、意識していなくても、「やっている行動」のほうを事実だとみなすからです。

では、どうして、仕返ししたくなってしまうのか。

それは、相手の自由を認めていない、からです。
もちろんこれは、お互い様ですから、
互いに相手の自由を認め合っていない関係、
ということができるでしょう。

「夫が妻の嫌がることをする」というのは、
Aという一つの事柄だけではありません。
Aという一つの事柄でこんな形になるとしたら、
他のいろいろな場面で似たようなことをしています。

恐らくそれは夫だけでなく、妻も、どこかで同じことをやっています。

世の中の問題の大半が、この「自由を認めない」
ところから発生していると言っても過言ではありません。

認め合えないところに、話し合いは存在し得ません。

例えば、この例でいえば、もし前記のようなことが起こった場合、妻と夫の関係が健全であったなら、二人で「話し合う」ことができるでしょう。

この「話し合い」すらも、「相手の自由を侵害している関係」
であれば、互いに「自分の主張を通す」ことが
目的となっているでしょう。

表面的には話し合いという体裁をとっていても、
本音のところでは「自分の主張を押し通す」を目標として、
戦い合っているのです。

こんな話し合いすらも、最初から、「相手の自由を尊重できない」意識
からスタートするので、理解し合うという結果にはなりにくいでしょう。

ですから「話し合い」にならない関係だとしたら、尚更、その前に、
あらゆるところで「選択の責任」をレッスンしていくことが先決だと
言えるでしょう。