相手の自由を認めて、自由になる人、不自由になる人 

「相手の自由を認める」と、自由になる人と、
逆に不自由になる人がいます。
それは、「認め方」が違うからです。

機能している脳にも違いがあります。

思考は、左脳が司っています。
今の社会の特徴です。

思考で「相手の自由を認める」と、
自分のほうは不自由になります。

このとき、他者中心的思考に慣れてしまっている人たちは、
「自分の自由」を忘れてしまっています。

思考で捉えると、「相手の自由」と
「私の自由」は共存しません。
むしろ、お互いに「自由を主張して、争いになる」と考えるでしょう。

それは相手の自由を認めると、相手がそうすることを、
「認めなればならない。受け入れなければならない。
許さなければならない」
と発想するからです。

そんな認め方をすれば、
「私は、我慢しなければならない。相手を許して、
相手の選択に従わなければならない」
となってしまいます。

これは、「相手」と「自分」とが、一つのエリアで、
その場所を、奪い合っているイメージです。

こんなとき、相手が一つのエリアを独占しようとすれば、
それを許す必要があるから、私は同じエリアの中で、
「我慢しなければならない」となってしまいます。

「感情や欲求」を閉じて、思考に傾いている人たちは、
こんな発想をします。だから、「不自由」になるのです。

こんなふうに、他者中心の「思考」は「平面」しか見えず、
立体がないのです。

他方、感情が開いていると、脳の機能はトータルに働きます。

物事を立体的に捉えることができます。

だから、
ここは、自分のエリア。
あそこは、相手のエリア。
というふうに、お互いに、自分のエリアを認め合うことができます。

これは、「相手」と「自分」とが、別々のエリアで、
自由に活動しているイメージです。

「自分の自由」「相手の自由」を、感覚で捉えることもできます。

「私の自由を認める」と、スッキリとした自立心を感じます。
「相手の自由を認める」と、相手から「自由」
になった感覚を自覚できます。相手に囚われないで済む解放感です。

「相手の自由を認める」を、思考で捉えると、
自分は「不自由」になるように錯覚します。

「相手の自由を認める」を、総合的に捉えることができれば、
「私も自由」「相手も自由」というふうに、
自分と相手が独立して、離れて立っていられる自由感を感じて、
より自由でいられるのです。