他者中心だと極端な思考に陥ってしまう

(久々に、記事をアップします。)

他者中心の人たちは「白か黒、上か下、左か右、善悪、優劣、強弱、正しい正しくない、得か損」というふうに、思考に囚われがちな生き方をしてしまいます。しかもそれは、甚だしく二極化的な思考になりがちです。

こんな二極化的な思考をすれば、当然、人生もそうなっていきます。

二極化的な生き方というのは、例えば白か黒という発想をすれば、「白と黒の間がない」ということです。
この意識が土台になると、見えるものも、さらには感じるものも、二極化してきます。

つまりそれは、見えるものも感じるものも、極端でないとわからない、ということです。

その極端さは、あらゆるところでもあらわれます。

例えば、遊園地のアトラクションなどでも、感じ方が極端になるために、外側からの刺激も、強い激しい刺激がほしくなります。
その刺激も、すぐに慣れてしまえば、さらに刺激の強いものを求めるようになるというふうに、エスカレートしていきます。

そんな強い刺激が、遊園地だけであればいいのですが、実は、そうでもありません。
強い刺激がないと満足しないというのは、人生においても同様で、それを望むようになります。

「人生が強い刺激で彩られていけば、楽しく楽しくてしかたがないだろう」
などと思う人もいるかもしれません。

それこそ、ギャンブルで大儲けしたり、海外で豪遊するというようなイメージが湧くかもしれません。
そんな生き方を望んだり、一攫千金を望んだりするかもしれません。

確かに可能性としては、そんなチャンスを手に入れることもできるかもしれません。

けれども、そんな強い刺激に、人間は、本来、耐えられるものではないようです。
というのは、私たちは、肉体も心も、ほんとうは、もっと繊細だし、精密だし、非常にミクロな感覚を有しているからです。

そんな存在であるために、ミクロな感覚を無視している人ほど、激しい人生になりやすいでしょう。

一見、その人生が華やかなふうに映ったとしても、それこそジェットコースターのように起伏の激しい人生となるでしょう。

というのは、強い刺激は、一方で、自分のミクロの感覚を無視し、その感覚器を傷つけているからです。

傷つけられれば、それは、ネガティブな意識として、蓄積されていきます。

それに加えて、私たちの社会環境そのものが、かなりネガティブ情報の中で生きています。
それも含めて、ネガティブな意識のほうが勝っています。

ポジティブな感度が低くて、さらに傷つくことにも鈍感になっていけば、危ないところにいても、危ないと感じないでしょう。

そのために、まさにジェットコースターのような人生を歩むか、厳しいばかりの人生となりがちなのです。

思考で生きると極端な人生になりやすいというのは、こういうことなのです。                 つづく