◇「選択の責任」その1
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自分中心の基本概念の中で、「選択の責任」の捉え方ほど、その解釈に幅があり、レベルの差があるものはないかもしれません。
「選択の責任」の質のレベルは、心の自由度のレベルと関係があります。
夫がそれを好きでするのは「夫の自由」だと言うのはわかります。けれども、夫がそれをすることが、妻にとって「不快」であっても、「やめて」と言えないものなんでしょうか。
簡単にまとめると、こんな内容の質問をいただきました。
まず、どうして、夫は妻の嫌がることをしてしまうのか、ということです。
明らかに妻が嫌がるとわかっているのに、夫がそれをするとしたら、すでに夫は、妻に対して仕返し的な気持ちもあって、それをやめようとしない、ということになるでしょう。
妻に対して否定的な気持ちを抱いているとしたら、そんな妻が「やめてよ」と言えば言うほど、やめないでしょう。
なぜなら、言う通りにやめてしまえば、それは、言わば「嫌な妻に従う」ことになってしまうからです。
そもそも「妻の嫌がることをする」という方法で抵抗しているのですから、やめるわけがありません。
むしろ、妻が嫌がることをやめないことが“無意識の仕返し”にもなるのですから。
このとき、夫が自覚してやっているのか、無自覚にやっているのかは、関係がありません。
「意識」という世界からみて解釈すると、本人が、意識していなくても、「やっている行動」のほうを事実だとみなすからです。
では、どうして、仕返ししたくなってしまうのか。
それは、相手の自由を認めていない、からです。
もちろんこれは、お互い様ですから、互いに相手の自由を認め合っていない関係、ということができるでしょう。
「夫が妻の嫌がることをする」というのは、Aという一つの事柄だけではありません。
Aという一つの事柄でこんな形になるとしたら、他のいろいろな場面で似たようなことをしています。
恐らくそれは夫だけでなく、妻も、どこかで同じことをやっています。
世の中の問題の大半が、この「自由を認めない」ところから発生していると言っても過言ではありません。
認め合えないところに、話し合いは存在し得ません。
この個々の自由を認めないことが、
一見、相手の自由を認めないほうが、統制がとれるように思う人もいるでしょう。
しかし今の社会にあっては、この「自由を認めない」ということが、いっそう、強化されていくような趨勢となりつつあるように感じます。
世の趨勢は、不満分子を力で黙らせるような支配的な統制しようとしている傾向にあります。
例えば、この例でいえば、もし前記のようなことが起こった場合、妻と夫の関係が健全であったなら、二人で「話し合う」ことができるでしょう。
この「話し合い」すらも、「相手の自由を侵害している関係」であれば、互いに「自分の主張を通す」ことが目的となっているでしょう。
表面的には話し合いという体裁をとっていても、本音のところでは「自分の主張を押し通す」を目標として、戦い合っているのです。
こんな話し合いすらも、最初から、「相手の自由を尊重できない」意識からスタートするので、理解し合うという結果にはなりにくいでしょう。
ですから「話し合い」にならない関係だとしたら、尚更、その前に、あらゆるところで「選択の責任」をレッスンしていくことが先決だと言えるでしょう。