初期設定が正反対になっている 

心の問題というのは、目に見えないために、なかなか解決しないと思い込んでいる人たちが少なくありません。

けれどもそれは、実は、私たちの人生の土台となる「初期設定」が、最初から間違っていたからだと、言えるのではないでしょうか。

初期設定が間違っているのですから、結果に、その設定通りに間違った結果になるのは、当たり前のことなのです。

自分中心と他者中心では、まったく正反対の言動をとります。正反対の言動をとるのですから、正反対の生き方になるのは、水の流れのように、当たり前だと言えるでしょう。

自分中心と他者中心の違いは、最初の「意識」のあり方そのものがまったく正反対です。

これを理解してもらいたくても、相手に伝えることが、このメルマガであれば、文字で伝えるしかありません。

けれどもひとたび文字になってしまうと、読み手の捉え方によって、その内容は、まったく違ったものとして伝わるという可能性も出てきます。

それでも、その文字を情報として取り入れるとき、文章を読みながらも、頭の中でリアルに三次元的に捉えることができる人であれば、それを、実生活に活かすことができるほどに理解するでしょう。

他方、その文字を、単に文字として平板に捉えてしまえば、その情報が暗記記憶としては残ることはあっても、それを実生活に結びつけることも、体験として実感できるまでに自分に落とし込むことも、できないでしょう。

例えば、水が入ったバケツの一カ所に穴が空いて水が漏れているとしましょう。

自分中心の発想ができれば、すぐに、他のバケツに移し替えるかもしれません。
その後で、水が漏れている穴を塞ごうとするでしょう。そして、そのために、どんな塞ぎ方をすればいいか、その材料と方法を考えるでしょう。

けれども、他者中心の発想は、バケツを移し替えたり穴を塞ぐことよりも、
「どうして、こんなところに穴が空いたのだろうか」
などと考えて、その原因を突き止めようとするほうに意識が向きます。
その間に、水はどんどん漏れていって、減っていくにもかかわらず。

この例だとまだ、
「そんなバカなことはしない」
と思うかもしれません。

では、これはどうでしょうか。

自分の子供が、いつも学校に遅刻して困っている親がいるとしましょう。
学校の先生は、20分早く起こしてください、と指導します。
親は、子供を叱りつけながら、20分早く床につかせようとするでしょう。

けれども、それで子供の遅刻が改善されることはないでしょう。

なぜならそれは、20分早く起きれば解決する問題ではないからです。
むしろ、そんな発想しか出てこないことそのものが、すでに「他者中心」に陥っている、ということができるでしょう。

他者中心の人に見えるのは、「子供が遅刻する」という光景です。
それだけみれば、確かに、「子供だけの問題」と見えるので、子供をなんとしようとするでしょう。

自分中心の人であれば、「子供が遅刻する」のは、自分とも関わりがあると気づくかもしれません。
そのとき、本当の理由や原因が見えてくるでしょう。
そして、親子関係を改善しようと努めるでしょう。

こんなふうに、まったく正反対の対応をしていってしまうのです。

自分をみていないと、「自分が何を意識し、どこをみていて、何を感じ、何を考えているか」にすら気づきません。

すでに他者中心で生きていると、この「自分が何を意識し、どこをみていて、何を感じ、何を考えているか」と問われても、答えることができないでしょう。

他者中心の人は、意識が外側や他者に向いているので、その言動も他者中心です。

他者のエリアにどんどん介入したり侵入したりしていきます。
しかも、物事を判断するとき基準にするのは、社会や他者を基準にしているので、それは義務や強制となっています。

自分中心と他者中心の初期設定は、自分の意識の所在の違いです。

すでに正反対の意識からスタートするので、両者は、行けば行くほど、乖離していきます。

晩年になればなるほど、その差は、はっきりとしてくるでしょう。