すべてを手に入れるための必須条件4章
今年前半の私のテーマは、「自由」でした。
スケジュール的には、非常にハードでしたし、これからも、この調子ですと、3分の2ほどは、ハードなスケジュールとなりそうです。
これもたぶん、私が望んでいたことが、実現しているという自覚があります。
それはともかくも、「心の自由」という点では、かなり意識して、「私が自由になれる」ほうを選択していきました。
この「自由」は、引き続き試してみたいと思います。
そして、この自由に加えて、もっともっと「私を認める。相手を認める」を意識していきたいと思います。
今年、連続して気づかされたのが、この「私を認める。相手を認める」でした。
「すべてを手に入れるための必須条件」の文中においても、「私を認める。相手を認める」という言葉を使用しています。
けれども、ちょっと違う点があります。
10年前の原稿の中では、「相手を認める。私を認める」という書き方をしているはずです。
つまり「私」ではなく、「相手」を優先しています。
当然のことながら、文章にも、自分の意識があらわれます。
いま、私が書くなら「私を認める。相手を認める」でしょう。
ここが、私の成長した部分だと思います。
とりわけ、いまは、この“互いを認める”も「自分自身を守るため」にある、と思っています。
どんなに自分の中に愛があっても、その行為が善意から発するものであっても、相手の領域を越えた行為は、「私を傷つけ、相手を傷つけます」。
この領域を越える瞬間というのは、自分自身をみれば、わかります。
それは、相手のためにと一生懸命になっている、この“一生懸命”です。
自分が一生懸命になっているときは、相手の中に侵入しそうになっているときです。
簡単に言えば、相手がそれを「受け入れたくない」。だから、自分が「一生懸命にならざるを得ない」ということです。
相手がそれを望んでいないのですから、人のために“一生懸命”になるというのは、結果的には、あまり相手のためにもならず、ときには、お互いを傷つけることになりがちです。
以下の文章は、「すべてを手に入れるための必須条件」の4章の一部です。
具体的な「選択の責任」と、感情とを別に分けて考えることができてはじめて、問題の所在がはっきりみえてきます。
逆の言い方をすれば、「具体的な選択の責任」と「感情」をごちゃまぜにしてしまうから、問題の本質が見えなくなってしまうということなのです。
このように「具体的な選択」と「感情」を別個に分ける考え方は、一見「冷たい」ように映るかもしれません。しかし、「選択の責任」は、「相手の生き方を認める、自分の生き方を認める」上で、もっとも根本的かつ重要なことなのです。
ときには相手のその選択が間違っていて、将来、問題が起こるだろうとわかっていることもあるでしょう。それでも、「自分の意志を大事にすること」「自分の生き方を自分が認めること」「相手の生き方を認めること」などを知るためには、間違った選択も必要なときがあります。失敗するのが必要なときがあるのです。
「間違った選択をしたとしても、自分が自分の責任だけを負うのは怖くない」あるいは「責任を果たす気持ちよさを知る」などは、「結果」を心配し、失敗を予測して禁止していては体験できません。
その「プロセス」の体験を通してしか学ぶことができないものではないでしょうか。その選択が間違っていようと適切であろうと、「自分の意志で選択し、責任をとっていく」という、まさにそのプロセスこそが、自分を育てるものなのです。
だからこそ、仮に相手のその選択が間違っていると思えても、「相手の選択の責任を認める」ことが大事なのです。
このような「選択の責任」を、自分が具体的にちゃんと分けて考えられる眼が養われてはじめて、「依存や支配、同情、なれあい」といったものとは異なる、ほんとうのやさしさが感じ合えるのではないでしょうか。