我慢も戦っていることになる 2
すばる舎からの著書『なぜか「まわりは敵だらけ!?」と思ったら読む本』には、「選択の責任」ということの意味を、多少詳しく述べています。
これは、言い換えると「私を認める、相手を認める」ということです。
言葉では「私を認める、相手を認める」というは知っていても、実際には、大半の人が、相手を認めることができないでいます。
もちろん、自分自身を認められない人もいます。
自分自身を認められないと、「罪悪感」が起こります。
むしろ、自分を認められないからこそ、相手を認められないのだと言えるでしょう。
自分が「選択の責任」を守らないということは、無断で他者の領土に踏み込むということです。
相手が、自分の領土に侵入していることもあります。
相手の領土を侵し合えば、そこから争いが生じます。
相手が怖い。傷つきたくない。争いたくないという理由から「我慢」していても、心の中では戦っています。
「選択の責任」に則って、相手の人生を尊重するという捉え方は、人によっては、冷たいと感じるかもしれません。
相手の人生を尊重するためには、時には、相手の選択が、自分の目からは間違っているように映っても、その人の選択を認める必要がある場合もあります。
これを「冷たい」と感じる人がいるのです。
「間違っていたら、殴ってでも、とめるべきではないか」
もちろん命にかかわることでしたら、そうすべきでしょう。
では、そういうふうに「冷たい」という人たちが認識している、一般的な生活においての「冷たくない関係」というのは、どういうものなのでしょうか。
たとえば、相手のことにお節介を焼いてあれこれ言ったり、愚痴をこぼしたり、小言を言ったり、争ったりすることが、「愛情あふれている」ということなのでしょうか。
大多数の人が、絶えず心の中で、相手のことを考えていたり、相手のことで悩んでいたり、相手のことばかり心配したりして心理的にくっついていることが、あたかも愛情であるかのように錯覚しているのではないでしょ
うか。
相手が悩んでいるときは、自分も一緒に悩み、そして、あれこれアドバイスをする。
そのアドバイスが適切であればいいのですが、たいていの場合は、相手の人生に口を出して、明らかに相手は嫌がっているにもかかわらず「自分が良いと思うこと」を押しつけたり、争ったりしています。
そうやって我慢しながら争って一緒にいることを、愛情だと錯覚してはいないでしょうか。
どんなに相手のことで心を痛め、相手のためにやった結果、あるいはやらせた結果、争ったり心が離れてしまうのであれば、それは決して「適した愛情の示し方」とは言えません。
気分的には、抱き合うようにくっついていたほうが愛情のように感じるかもしれませんが、そうすることで、「悪い結果」になるとしたら、そこにあるのは愛情ではなく、依存や支配です。
感覚的なことで言えば、「べったりとくっついた感覚」を愛情だと思っている人であればあるほど、相手と離れて「互いに、自分の足で立っている感覚」を知る必要があるでしょう。
この「選択の責任」の“離れた感覚”あるいは“独立した感覚”を知らない限り、自ら、争って問題を起こしていくでしょう。
これができないと、「愛情」という名の下に、相手の領土に侵入し、争いを引き起こすでしょう。 (おわり)