どっちがほんとうの自分の気持ち?
「どっちがほんとうの、自分の気持ちなんでしょうか。こんなとき、どちらを選んだほうがいいんでしょうか」
という質問をいただきました。
朝、休みのとき、ゆっくり寝ていたい。それを実行すると、寝ているときは、とても気持ちがいいですね。
でも、その日一日ゴロゴロしてしまうと、結局、今日は、何もしなかったと、後悔したり自分を責めてしまいます。
休日になると、朝、ゆっくりしていたい。朝も眠い。けれども、私はマヤ登りが好きです。
山登りに行くには早朝に眠たいのに無理矢理起きなければなりまえせん。
朝はつらいけれども、山に登って頂上に立つと、やっぱり来てよかったなあ、と思います。
どっちを優先したほうがいのでしょうか、と。
普段、何気なく行動していることも、自分中心を意識し始めると、こんなことを考え始めたりします。
先ずは、自分に関心をもって、朝の目覚めや一日の過ごし方を観察できるのは、他者中心になって他者の言動に囚われてあれこれ考えるよりは、はるかに健全ではないでしょうか。
最近、私は盛んに「いまに焦点を当てる」ということを言っています。
過去は、過ぎてしまったこと。
未来は、まだ来てない。
どちらも、どんなに考えても、自分の手でどうにかできるものではありません。
私たちが扱うことができるのは「いま」だけ。「いまの瞬間」だけです。
だから、「いま」に焦点を当てるとしたら、
「どちらが自分の気持ちを叶えてあげたことになるのでしょうか」
と、実に平凡な、でも「どうしてリンゴは木から落ちるのか」という疑問に通じるものを感じます。
まず、眠たいからゆっくりと朝寝坊した。そして、何もしないで一日が終わってしまったとしたら、「それだけ疲れていた」ということです。
私たちは頑張ろうと思えば、そのとき、どんな疲れていても、限界になるまで頑張ることができます。
中には、自分が頑張っていることすら気づかない人もいるでしょう。
けれども無意識は、違います。
心身共に疲れていれば、それだけ休息が必要だと知っています。
ですから、もしその日一日、何もしないで終わったとしたら、それだけ疲れていたということです。
そんな自分を受け入れるとしたら、
「そうか。一日、ゴロゴロしていたいほど疲れたいたんだ」
と、自分の状態を受け入れるこんな言葉を自分に投げかけてほしいものです。
山登りについては、「いま眠たいのを我慢して起きた」という“いま”に焦点を当てれば、
「じゃあ、いま眠たいのだから、中止すべきですか」
とそんな疑問が起こるでしょう。
けれどもその前に、「山に登りたい」と思ったこと。
山に登るには、朝早いことは、承知の上です。
ですから、この「いま」を大事にするということであれば、早朝に起きることを承知で、山に登りたいという願いを叶えるということになるでしょう。
もちろん、このとき、非常に体調が悪い場合は、そのときの判断で中止することもあるかもしれません。
むしろ、山登りの好きな人は、そんなその時々の判断が、生死にかかわることもあります。
そういう意味では、その時々に起こっている「いま」を感じる自分になることが、よりいっそう、大事だと言えるのではないでしょうか。
どちらがより「自分中心だろう」という疑問よりも、そんな疑問を抱くことそのものが、自分の意識が変わったということではないでしょうか。