「贅沢したらダメ」で争いになる 

金銭的なことが理由で、家族が争うことが少なくありません。

例えば夫が、
「贅沢したらダメだろう」
と妻に言えば、妻は、
「あんたの稼ぎが少なから、贅沢できないんじゃないの」
と返したくなるでしょう。

妻が夫に、
「贅沢したらダメじゃないの」
と言うとしたら、妻の心の奥には、
「稼ぎの少ないあんたが、どうして贅沢なことをするのよ」
といった思いが潜んでいるでしょう。

夫は夫で、妻に対して、
「お前がもっと稼げばいいじゃないか」
と思っているかもしれません。

どっちに転んでも、相手を責める結果になります。

そんな状況で家族が「贅沢をしてはいけない」と決めたとすれば、それぞれが自分の欲求を満たすことができません。

欲求を満たすことができなければ、自分が我慢しているからこそ、相手が贅沢しているのではないかと監視したくなるでしょう。

もし家族の一人が、贅沢をしていそうに見えたら、全員から、集中攻撃を受けることになるでしょう。

「贅沢してはいけない」と決める元々の理由が、収入の低さであり、またそれが、社会構造のひずみによって起こっているとしたら、その決まりを守るのは難しいでしょう。

仮に、「贅沢をしてはいけない」と決めたとしても、少なくとも、心から納得し合った中での決め事でない限り、そう決めることで家族が仲良くなるとは思えません。

それは社会も同様です。
どんなに規則やルールで相手を縛ったからといって、社会が良くなるわけでもありません。

むしろ、束縛や監視がどんどん強化されれば、ますます社会環境は悪化していくでしょう。

逆に、こんな社会であればあるほど、自分たちを束縛するものを、可能な限り、減らしていくことなのかもしれません。

例えば、もし夫婦が話し合える関係であれば、自分のほしいものを、一つずつ叶えてあげて、それで「よかったね」「ほんとよかった」と言い合えるコミュニケーションが増えたほうが、はるかにいいでしょう。

その分だけ、心が自由になれます。

心が自由になれば、金銭的にも、収入が増える可能性が高くなるでしょう。

自分の欲求を満たすことで、どうして束縛されている心が解放されることになるのでしょうか。

それは、「欲求を満たす」ということそのものが、自由ということだからです。

「贅沢をしてはいけない」というのは、思考から生まれたものです。
そしてまた、それは自分を縛っています。
思考が、自分をどんどん縛っていくのです。

この社会は、毎年、毎月、新しい規則が生まれていきます。
このまま、毎年毎年、新しい規則が増え続けて行けば、どうなっていくのでしょうか。想像してみてください。そのすべてが、自分を縛っていくものです。

では、「自分の欲求を満たしてよかったね」はどうでしょうか。
その「よかったね」は、自分を肯定することそのものです。

「贅沢をしてはいけない」と規則で縛り合えば、苦しい。
一つでも話し合って「満たせてよかったね」は、自由になる。

貧乏体質になるか、金持ち体質になるか、こんなところでも差が出てくるのです。