どんなふうに解決したかのほうが、大事
それほど大きな問題でないとき、そのままやり過ごせば、何となく解決してしまうことが少なくありません。
例えば、夫婦や親子で喧嘩をしてしまいました。
どちらも感情的になって、どちらかが怒って黙り込んだら、その場はひとまず、終わります。
問題解決という点においては、実権を握っている強者の主張が、通ることになるでしょう。
その後、どちらも謝る気がなければ、感情的なこだわりが薄れていくまで、二人の間で無言の戦いが続きます。
何かのきっかけで、電話が掛かってきて、相手にそれを取り次いだり、相手の用事を自分が伝えたりするというようなことがきっかけで、どちらかが口を利いたとき、だんだん、いつもの生活に戻っていきます。
(もちろん、薄れていくといっても、その感情がなくなったわけではなくて、いったん、感情の倉庫に保管されるだけなので、いつでも、取り出し可能です。また、貯蔵されているだけなので、似たような出来事が起こると、保管されているものの中の似たような感情も一緒に取り出したりするので、その感情は激化します。)
これを称して、
「もう、問題は解決したので、相談しなくてもよくなりました」
と言う人がいます。
「行くか行かないか。するかしないか」というような択一の問題では、争って勝つという方法でも解決するでしょう。
けれども、最も重要なのは、解決に至るプロセスです。
どんな方法で、それを解決したのかということです。
争って、勝ったほうの主張が通る。仮にこんな方法で問題解決したとしても、負けたほうは納得しないでしょう。
勝ったほうとしても、負けた相手の不服そうな顔を前にして、「自分の主張が通って、大満足」ということにはならないでしょう。
それに、そうやって問題が起こる度に争っていれば、互いの心は離れていくばかりでしょう。
問題掛解決の基本原則は、お互いに、
「自分を愛するために」
「自分の欲求を叶えるために」
「自分を傷つけないために」
「自分を守るために」
ということです。
多くの場合、相手との利害が一致しないから問題が起こるのだから、そんなことは不可能だ、と言いたくなるかもしれません。
そうかも知れません。
けれども、できるだけ、それに沿った解決方法に近づける努力をすることはできるはずです。
これまでの自分の過去を振り返って、どんな解決方法をとってきたか。解決に至るまでのプロセスが、決して快適でないとしたら、それは据え置きの状態で、ほんとうの意味で「問題は解決しました」とは言えないのです。