自分を愛するか、相手を愛するか(1)
「自分が犠牲になる」という点について書いてほしいという話をいただいた。
私自身が、もともと「同情の支配」に極端に弱かったせいもあり、また、自分中心心理学での分類では、「犠牲者」を自認してもいる。
ただし、最近は、新刊でも書いているように、自分が納得する範囲での犠牲者であろうと努力している。
ときには、意識して「暴君者」にもなってみたい。
また次の新しい本に向けて、原稿執筆がスタートする。
このときは、私の挑戦として、「暴君者モード」で書き進めてみたい。
自分の中にある、それぞれの要素を「認めたい。受け入れたい」。さらにそれらを活かしたいからである。
「さて、何を題材に?」
恋愛で書くか、家族問題で書くか。
恋愛は「相手が好き」という感情にからめとられて、相手のいいなりになりやすい。これを愛情だと勘違いしている人もいる。
家族問題においては、なんといっても、「同居するかどうか」が、ダントツである。
などとあれこれ思いを巡らしていたとき、ちょうど、共時性で、「犠牲」というテーマにあったメールをいただいた。
関係のある部分だけを抜粋させていただく。
《(夫の両親との)同居(または別棟)の話が出るのではないかと不安もよぎります。
私のシンプルな感情では勘弁して欲しいです。外野の声を無視(自分の意見を言えるのか)できるのか、自分の気持ちを大切に出来るか、不安です。
現在も特に離れたところに住んでいるわけではなく車で15分ほどの場所ですし、それで困るとは思っていません。
義理家に行くたびに、
「どれだけ自分たちが苦労して生きてきたのか、早くこの家を継いで欲しい、もう疲れた」と言われてきました。
先日は舅が、夫に、
「親孝行できるときにしておかないと、死んでから後悔するぞ」と言ったそうです。
以前、私が、
「自分はどうも罪悪感が強いようなんだよね」
と夫に話したところ、
「俺もそうなんだ、なんでだろう」
と言っていたのを思い出します。
長男の夫は幼い頃から「長男だから」という声を耳にしてきたことと思います。》
典型的な「同情の支配」である。
自立しようとすると、「同情の支配」で待ったがかかる。
「同情の支配」は、自立することを、許さない。
それぞれが抱き合い、もたれ合っているために、「私が、自立しよう」とすると、激しい罪悪感にさいなまれる。
同情の支配は、残酷である。
「同情の支配」が高じれば高じるほど、貧困、精神的病気、肉体的病気に見舞われる。
「こんなにつつましく、悪いこともせず、人を思いやり、隣近所にも腰が低く、親切に善良に生きているのに、なぜ?」
とその人は呻吟する。(つづく)