不幸でなければ許されない罪悪感(1)
「選択の責任」は、また、“罪悪感”の基準です。
もし「選択の責任」にかなっているにも関わらず、あなたが罪悪感を覚えるとしたら、それは「操作された罪悪感」と思ってください。
そこには、相手に罪悪感を抱かせることで、相手を支配していようという意図が隠れています。
選択の責任を見極めると、その操作された罪悪感に気づきます。
そんな操作を目的とした罪悪感を解消したいときは、
「これは、操作されインプットされた罪悪感なんだ」
と言葉でつぶやくのもいいでしょう。
私が悪い。私は罪深い。
一見、崇高な感じがします。
この罪悪感も、意識レベルでいえば、人それぞれです。
もし心から「私が悪かった」と思うのであれば、ただ後悔するだけでなく、「もう二度としないぞ」と誓い、その努力をし続けます。
その罪悪感を、建設的なものへと引き上げる礎(いしずえ)とすることができるでしょう。
それが「責任として正当な罪悪感」であれば、その「責任を果たす。償う」ということで、自分の中の罪悪感を軽くするための努力をしていきます。
自分中心心理学的に言えば、「どうしても自分を責めてしまう」としたら、自分を責めないで済むために、罪悪感を解消するために、
「どうすればいいか、どんな努力をすればいいのか」という発想をします。
けれどももし、どんなに自分を責めても、その状況を、
「いま、変えることはできない」
としたら、多分、それは罪悪感を感じるレベルのものではないと、私は判断します。仮にそれが、一般的には非常識、不道徳、非道徳、不実と言われようと。
なぜなら、そんなふうに「すぐには動かない状況」の中には、それに関わっている複数の人達の“無意識の同意”があると、捉えるからです。
相互に同意があるということは、有り体に言えば、それぞれにメリットがあるということです。もちろんこれは、無意識のメリットです。(つづく)