不幸でなければ許されない罪悪感(4)

妻は、罪悪感を覚えないために、“絶対的優位”に立つまで犠牲者の役割を演じます。
 そして、「もう、こうするしかなかった」という現実を創り出すために、忍耐します。
 妻がこうであるとき、「自分中心心理学」では、夫のほうも無意識に、それに「同意している」と捉えます。

 夫のほうは……。
・自分には、能力がないと思い込んでいる。
・妻に見捨てられるのが怖い。
・多少は妻を自由にしなければ、妻との関係も破綻してしまうだろう。
・しかし、妻だけ自由に解放してやるのは、悔しい。
・逆に、自由にしてやると、逃げるのではないか と不安にもなる。
・妻が何をしているか、知りたくない。詮索したり、知ってしまえば、別れることになってしまうだろう。
・独りで生きていくのはつらい。
 といったふうに。

 あるひとつの出来事に関わっている人たちの意識を探っていくと、起こっている現象の奥には、それぞれの人たちの、無意識の同意があります。

 この「夫と妻」のように、罪悪感で自分を縛れば、無意識は、こんな手の込んだ方法で、それぞれの思いを達成させようとします。
 だから、むやみに「自分を責めることはない」と言いたいのです。

 罪悪感に縛られて自分を責めても、結果は不幸になるだけです。
 不幸にならなければ、 思い通りにできない、というのであれば、決して幸福にはなれませんからね。
 無意識のところで「同意があるんだ」として、自分を責めないほうが、その中で、何かを学び取ろうとするでしょう。

「私がそうしたいのは、あるいは、そうしてしまったのは、もろもろの理由で、そうせざるを得なかったのだ。そこには、相手の同意があったのだ。だから、いいんだ」
 と自分を責めない言葉をつぶやこう。
 自分を責めるのであれば、むしろ、まだ、“感謝”したほうがいい、と私は思います。
 そのほうが、かえって、打開策の妙案が浮かぶでしょう。

 罪悪感から解放されたときにこそ、
「私は、こんな中ぶらりん の状態が、いやだ。だから、自分の気持ちのけじめがつくように、心がすっきりするように、努力していこう」
 という気持ちになるものです。

 もし状況を動かすことができないとしたら、
「いまの私には、これが必要なんだ。だからいいんだ。これは、無意識に相手も同意していることなんだ」
 とつぶやいて、罪悪感を捨てることですね。(終わり)