罪悪感を消すレッスン(2)

 バスの中で、高齢者の人たちが来ても、罪悪感を感じないレッスンをしていた。
 罪悪感が減ってくると、逆に“譲りたく”なる。

 譲るときは、「しなければならない」ではなくて、「譲りたい」から譲る。
 「譲りたくない」ときは、気持ち良く座っていられる。

 こんなふうに罪悪感が減ることで、思わぬ付録が付いてきた。

 実は、ここのところが“意識のすごさ”である。

 ある日、子供連れの女性が乗り込んできて、私の席の近くに座った。
 その日は、私は二人掛けの、奥の席に座っていた。
 
 それでも譲りたくなっていた。

 譲りたくなったのはなぜか。

 ふと見上げると、その女性は、胸にも赤ん坊を抱いていた。
 けれども、見上げないと気づかないほど、「座りたいオーラ」を出していなかった。
 子供を抱いている幸せを実感している。そんな感じだった。
 その「自分中心的感覚」が心地よかった。

 その心地よさを感じて、「譲りたい」と感じる前に席を立っていた。
 すると、私が立ったので、隣に座っていた女性も思わず立って、席を譲った。

 赤ん坊を抱いた女性は、小さな子供と共に、席に座ることができたのだった。

 また、別のある日、気持ち良く座っていると二人の老人が、乗り込んできた。

 車内は混んでいて、二人は座りたそうである。

 この日も「譲りたく」なっていた。
 けれども、
「私が席を譲っても、座れるのは一人である、もう一人の人が座れないなあ」
 などと考えて立ちそうになると、巧い具合に、私の席から二列前の人が、一人の老人に譲った。
 
「ちょうどこれで、私が譲れば、二人とも座れる。良かったなあ」
 などと考えていると、私が声を掛ける前に、私の前席に座っていた人が、もう一人の老人に譲った。
 それはなんとなく、前の人に刺激されて立った、という感じだった。
 結局、巧い具合に私自身は譲らなくても、二人の老人は席に座ることができた。

 私はこれも、偶然とはみない。
(というのも、「今、自分が意識していることがすぐに現象化する」ということが、当たり前になってきていて、それを偶然とみることのほうが、私にとってはかえって不自然に感じられるからである。)
 こんなふうに、自分がそうすることにOKを出すと、楽な状態で望みが叶うような状況が次第に増え始める。

 「席を譲る、譲らない」というこんな小さな出来事でも、自分の感覚を感じたり、そこに起こっている現象と意識の関係を視たりと、楽しむことができる。

 そんな小さな出来事を通して、意識のすごさをさらに自分の中にインプットできる。
 それがまた、プラスの共時性を引き寄せる原動力となる「好循環」を生む。(終わり)