「逃げる」を学んでいない人
どこまでも争っていって、ボロボロに傷ついていく人たちがいる。
争いがエスカレートすればするほど、どちらも、「勝った」という満足感よりも、「負けて悔しい」とほぞを噛む思いのほうが強いだろう。
一方のほうが、客観的には明らかに「勝っていた」としても、勝ったほうも、たぶん、心から勝ったことを満足するほどに自覚はしていない。
むしろ、多くの場合が、自分のほうが勝っていても「内的気分は、負けている」。
にもかかわらず、どうして、そんなにボロボロになるまで、争っていくのだろうか。
人は、家庭で学んだままの言動パターンをとっていく。
支配的な家庭で育った人は特に、そうである。
例えば、家で親に、言葉や行動でどんどん攻撃されていた。
子供は、親を恐れ、傷ついていく。
ところが、その一方で、自分の親と同じ言動パターンを学習する。
社会に出ても、他者にとらわれていればなおさら、自分が親と同じ言動パターンをとっていると気づかないだろう。
自分の家庭がひな型となっていて、比較できる他の家庭を知らないと、いっそうそうなっていく。
本人にしてみれば、親は、そうやっていた。家庭では、親のやり方が通用していた。なのに、社会では、それが通用しない!
「えっ? なぜなんだ!」
と、一瞬、本人は、頭が混乱する。
自活する能力のない子供は、どんなに荒れている環境の中にあっても、そこから「逃げることができない」。
本人は、家庭という枠の世界で、この「逃げることができない」が、身に染みついている。
逃げる。避難する。避ける。回避する。やめる。降りる。
家庭で逃げることができなかった人は、こんな行動を、学んでいない。
退くことを知らないから、人間関係においても、相手にどんどんつっこんでいく。
ところが、逃げるという方法を知っている社会の相手は、逃げる。
逃げることを学んでいない人は、それが理解できない。
相手が逃げるから、混乱しながらも、自分をわかってもらおうとして、追いかけたくなる。
追いかけるから、さらに相手は、逃げようとする。
だからいっそう、飛びかかってでも追いかけたくなる。
といったふうにエスカレートしていく。
では、「逃げることを知らない二人」が出合って争えば、どうなるか。
言うまでもなく、どんどん攻撃を激化させていき、互いにボロボロに傷ついていく。
「逃げることを知っている人」は、それ以前に、
「うむ? この人は、私とは何となく合わないな」
という自分の気持ちや感じ方を信じることができる。
だから、
「この人は、嫌だから、つきあうのは、やめとこう」
と、無理に近づいたり、つきあったりしないだろう。
逃げることを学んでいない人は、こんなとき、
「嫌な人とはつきあわない。近づかない」
と発想するよりも、
「虫の好かない奴だから、近づいて、やっつけてやろう」
と、自らトラブルの種の中に入っていく。
あるいは、態度や表情で、「おまえは嫌いだ」という信号を発信する。
人によっては、この「自分がこの人を好きか嫌いか」、自分の気持ちすらわからないで、「嫌いかも知れない人」に近づいていって、わざわざ傷つきに行く人もいる。