争わないということ 2 

 争っても、決して満足することはありません。

 普段の生活での争いで、「勝って大満足」などということは、まず、ないのです。

 ところで、争わないというのは、決して、「主張しない」ということではありません。 

 争わないで、主張する。
 むしろ、争わない、あるいは争いたくないから、自分の気持ちを伝える。

 それも自分のための主張です。
 だから、何が何でも、「自分の主張を通す」ことをめざしてはいません。
 自分が、もろもろのいやな気分や感情を引き摺らないために、自分を解放するために表現する、という発想です。

 もちろん、自分自身が楽になる表現の仕方もあります。

「戦いたい人」は、自分が楽になる表現の仕方を知りません。

 だから、「戦って勝つ」をめざすしかありません。
 そこに満足を見出そうとします。

 戦いたい人は、どこまでいっても、戦うことをめざすのです。

 けれどもそうやって、どんなに「戦って満足を得よう」としても、決して満足は得られないでしょう。

 例えば、争いたくない人は、争ってまで「争いたい人」の役に立ちたいとは思わないので、争いたい人とは離れるだけです。

 このとき争いたい人が、自分にから去っていく人に対して、
「相手は逃げて行った。私は勝った。相手を追いやったんだ」
 と解釈すれば、勝った気分になるはずです。

 勝ち負けで言えば「自分が勝った」のです。

 ところが、争いたい人は、そんなふうに解釈しません。

 そのときは、こんなふうに思うでしょう。
「自分をのけものにして」
 と、戦う材料を一つ増やしただけになるでしょう。

 結局、こんなふうに戦う材料を増やしていくだけなのです。 (つづく)