次から次へと不幸が襲う
家族の誰かが長期的な病気で長患いしていると、どうしても病人を優先にしてしまうために、看病したり介護したりする人たちも、心身共に疲れてきます。
疲れているだけならば、休むことで元気を回復させることができるでしょう。
しかし、病人を世話しなければならない立場にある人たちは、
「精神的に疲労困憊してくるだけでなく、世話をしている家族も病気になったり、金銭的に困窮したり」
と、家族全体が病人中心に回ったり、病人のために一生懸命になっている人たちほど、なぜか「次から次へと不幸が襲ってくる」というようなことが起こります。
これがたまたま、ある一家族だけが不幸に、ということであれば、
「運が悪かったんだ」ということで話は終わってしまうのでしょう。
が、私のカウンセリング経験を通してみると、それは決して偶然ではなく、確かに「次から次へと不幸が襲ってくる」という家族には、共通するものがあるのです。
講談社から「『なぜかお金がたまらない』が変わるコツ」という本を出したことがあります。その中では、お金持ちと貧乏な人との違いを、金持ち体質、貧乏体質という言い方であらわしています。
この貧乏体質というのは、言いかえれば不幸体質です。
決して貧乏な人たちや不幸な人たちを馬鹿にして、そんな言い方をしているわけではありません。
“体質”といっていいほど、幸福と不幸とでは「根本の言動パターン」が異なるのです。
「家族の誰かが長期的な病に伏せると、生活が病人中心に回るために、なかなか自分中心ではいれない」と嘆く人がいます。
けれども私は、反対の意見を主張したいと思います。
病人中心に回る生活をしてしまうから、貧乏体質、不幸体質になってしまうのだと。
貧乏が悪いわけではありません。不幸が悪いわけでもありません。
なぜなら、そこにはそれなりのメリットがあるからです。
貧乏と不幸を差し引いてでも、得するものがあるのです。
その大きな一つは、絶えず言っているように「罪悪感」です。
さらにもう一つは、「恐怖」です。
この二つを「回避」できます。
これらのつながりを詳しくメルマガで説明するために費やす時間はありませんが、この二つが、結果として「次から次へと不幸を招いている」のです。
罪悪感は、「幸福であることを許さない」意識です。
お互いに、自分が幸福であることを許せないとしたら、自分の無意識は「不幸を選ぶ」のです。
また、「病気、不幸、貧乏」という言葉には、どんなイメージが湧きますか。
弱い者同士が、小さくなって固まって怯えながら、冬は火の気がないために、お互いの身体で暖をとりながら身を寄せ合っている、そんなイメージが湧いてきませんか。
そこにあるのは弱者(と思い込んでいる)の「恐怖」です。
どうでしょうか。「病気、不幸、貧乏」が、「罪悪感」や「恐怖」と深く結びついているということが、なんとなく、わかったような気がするのではないでしょうか。
(“気がする”だけでいいのです。)