愛してもらいたいと望むこと
最近とみに思うことは、いかに我々が、「人に愛してもらいたい」と欲求しているかということだ。
もちろん愛されれば嬉しい。
けれども、「愛されれば本当に満足するのだろうか」と、しばしば疑問に思う。
この「愛される」という点について、多くの人が描くのは、
「私が望むときに、自分の望むような愛された方をしたら、この上なく幸せだろうなあ」
というイメージではなかろうか。
「私は何も言わずに、私の思っていること、感じていることは察知して、私は何も言わずに、私の望むような愛し方をして欲しい」
そんな望み方である。
だから当然、
「私が話したくないときは、それを察知して、話したくない私の心を理解して、私の気に入るような対応をして、話したくないという気持ちを満足させてほしい」
と望む。
「私が、一緒にいたいときは、私が黙っていても、それを察して、私の一緒にいたいという思いを叶えて、満足させてほしい」
と望む。
「私が眠たいときは」
「私がドライブしたいときは」
「私が悲しいときは」
「私が食べたいときは」
などと、言い出せばきりがない。
「愛されたい人」は、それを相手に要求する。
では、その要求に応えようとする人はどうだろう。
そんな「愛されたい」を望む人の要求を満足させるには、100%に近い他者中心の意識で、その人のために生きることになる。
まるで愛されたい人の奴隷である。
しかも、それは「心」までも、という奴隷以上の条件つきである。
例えば、一般的には、叩かれれば痛いという苦悶の表情をするだろう。
しかし、愛されたい人の望みを叶えるためには、その要求に応えようとする人は、その人が何を望むかを瞬時に察知して、その人の要求を「自分の欲求として感じなければならない」。
愛されたい人が、「痛いという苦悶の顔をしてほしい」と望んでいるのであれば、すぐにそういう感情が湧きあがる。
愛されたい人が「叩かれて嬉しい」と望んでいるのであれば、「嬉しい」という感情が湧きあがる。
そんな相手がこの世にいるのだろうか。
もともと理不尽な要求であるし、実現不可能な欲求なのだ。
こんなふうに突き詰めていけば、「私の願いを100%叶えてくれる人」はこの世のどこにも存在しない。
けれども、ただ一人、“いる”。
それは、「自分自身」である。