矛盾している言動
支配性の強い他者中の人ほど、他者に対して要求します。
しかもそのとき、相手が自分の要求を満たしてくれることだけに焦点が当たっています。
けれども、相手が自分の要求を満たしてくれないと、傷つく。この、傷つくことそのものが、相手を認めていない、というになります。
そして、
「いつも私は、傷つけられたばっかり」
という人も少なくありません。
そんな要求は、例えて言うなら、相手は、
「あなたなんて、好きではありません」
と言っているにもかかわらず、
「自分を好にならないのは許せない。傷つく」
と言い続けているようなものです。
ですから傷つくもなにも、傷つくのは当たり前だと言えるでしょう。
もしあなたが実際にそうやって傷つくのは、あなたが相手に無理矢理それを要求するからです。
では仮に相手が、
「一生、あなたの要求通りに従います」
と言ったとしたら、実際にあなたが満足するでしょうか。
あなたの要求に従うということは、つまり、相手は、自分の気持ちに反することであっても、あなたの要求に応えるために「自分の意思を捨てなければなりません」。
端的に言うと、意思を捨てるということは、感情を捨てるということです。
自分の欲求や感情を捨てないと、意思を捨てることはできません。
それはつまり、人間の最も本質的な、自分を大事にする、自分を愛する、ということを捨てるということになります。
仮に感情を捨てることができたとしたら、「あなたが好きですよ」という感情もなくなるということです。
つまり、ロボットのようなものです。
ところが、支配性の強い人たちが相手に求めているのは、本当は、自分に従えということではなくて、
「私を、心から愛せよ。私が心から満足させろ」
ということなのです。
それは、お掃除ロボットに、
「私が心から、愛されていると満足するぐらい、私を歓びで満たせ。
私を愛せよ。私が心から満足するように従え」
と命令しているようなものでしょう。
そんな満足を、「感情や自分の気持ちを捨てた相手に求める」ということが、いかに矛盾する論理であることか。
けれども支配性の強い他者中心の人は、明らかに矛盾してした要求を相手に突きつけているということに気づけません。
相手に対して、
「お前は、お掃除ロボットになれ!」
と要求し、と同時に、
「私を、愛と満足で満たすんだ!」
と命令します。
お掃除ロボットは、無反応なだけです。
けれども人間は、支配されれば、苦痛の表情を浮かべます。
支配している相手から、愛や満足が届くわけがありません。
こんな矛盾した欲求を相手に突きつけていけば、突きつける人も突きつけられる人も、互いに、感情がこじれていくのは当たり前ではないでしょうか。