愛がないのは、どうして?
「目の前で起こっている“今”」に集中できなければ、
愛さえも感じないかもしれません。
誰もが「愛がほしい。愛がほしい」と望みます。
けれども、なかなか望む愛が得られないとしたら、
それは、「今」に集中していないからだと、言えなくもありません。
例えば、こんなふうに思ったりしたことはありませんか。
さまざま集まりでは、
その中でもAグループ、Bグループ、Cグループというふうに、
数人でのグループができあがり、それぞれの話題で盛り上がります。
こんなとき、自分が、Aグループに属して話をしているとき、
話に参加しながらも、
「Bグループのほうが面白しろそうだ」
「Cグループのほうが楽しそうだ」
「あっちのグループになりたかったな」
などと、別のグループが気になったりしたことはありませんか。
こんなこともあるのではないでしょうか。
二人が一緒にいながら、話すこともなく、
それぞれにスマホをいじっている光景は、
すでに当たり前となってしまっています。
二人で一緒にいても、相手に関心を向けるよりも、
他者のことばかり気にしている人も少なくありません。
相手に第三者のことを相談することはあっても、
相談している相手に関心を向けない、というのも、
相手と向き合っているわけではありません。
二人で一緒にいても、
第三者の噂話で盛り上がっているとしたら、
これも、相手と向き合っているとは、言いがたいでしょう。
二人で一緒にいながら、互いに、相手に関心を抱いていない……。
だから、一緒にいるという“実感”もない。
こんなふうに、多くの人が、なぜか、
自分の目の前にいる相手に関心を向けていません。
しかも本人たちは、そんな自分にまったく気づいていません。
それでいて、
「誰も、私に関心をもってくれない。誰も私を愛してくれない」
と嘆いていたり、目の前にいる人よりも、
いない人を追い求めていたり、憧れていたりしています。
けれどもそうやって「あっちの水のほうが甘そう」
というような意識で、目の前にいる人に無関心であれば、
どんなに「愛がほしい、愛がほしい」と求めたとしても、
目の前にいる人を“感じること”ができない限り、
愛がないのは、当たり前ではないでしょうか。
目の前にいる人に無関心でいて、愛が得られるわけがありません。
もっと、目の前の人を「感じてみませんか」。
そうすれば、そこに愛を感じるかもしれませんよ。