「防犯カメラ」という言葉が「監視カメラ」に 

随分前に、街に防犯カメラの設置が増えているという話を
したことがあります。
その当時、防犯カメラではなく、私自身は「監視カメラ」と
呼んでいました。

防犯カメラという呼称だと、なんとなく、「住民の立場に立って、
住民を守ってくれている」という印象を与えます。

他方、「監視カメラ」という呼称は、
「誰かが、住民の行動を監視している」
というような印象を与えます。

いまや監視カメラは電車にも設置しています。

小田急線での事件によって、急速に進みました。
2021年8月6日に東京都世田谷区内を走行中の
小田急電鉄小田原線車内で発生した無差別刺傷事件である 。
事件により乗客の女子大生が重傷を負うなど、
合わせて10名が負傷したという事件です。

あの事件は、あのあとどうなったんでしょうか。
まったく情報がありません。
監視カメラ設置のための「ヤラセだった」という噂もあります。

いまや私たちの意識の中では、いつの間にか「防犯カメラ」
という言葉が「監視カメラ」という言葉に置き換わってしまっています。

そして、私たちがすでに「監視される」ということが、
通常のことのように思い込み始めている。

私たちが監視されることに、疑問を抱かなくなっていく。
あるいは、そうされることに次第に慣れてしまっていく。

それは自ら、檻に入ろうとする意識です。

監視カメラだけではありません。
こんなふうに、様々な出来事が起こる度に、
それを予防するという名目で「~をしてはいけない」条項や
「~のための」条項が決められていき、結局はそうやって、
じわじわと自らの首を絞めるような禁止や違反の決め事や事が
多くなっています。

どこかでこんな流れに歯止めをかけないと、私たちの生活は、
どんどん不自由になっていくでしょう。

その一方で、「自由である」体験が乏しい人たちは、
その「自由」が怖い、という人たちも確実に増えています。

「あなたの自由ですよ」と言われると、どうしていいかわからない。
何をしていいかわからない。責任をとるのが怖い。
考えるのもつらい。不安に感じる。
だから、だれか「自分に指示してほしい」。
こんなふうに思ってしまう人も少なくありません。

他者中心であればあるほど、「自由である」ことに
不自由さを覚えるに違いありません。

自分が自分であることの証明であるとも言える自由が
奪われてしまえば、どうなっていくか想像できるでしょうか。

「自由である」という基本的なことが、次第に、
当たり前ではなくなってきています。

やがては、「不自由である」ということさえ、
気づかなくなっていくかもしれません。
それでも、自分自身が自由でなければ、気づかなくても、
“心が苦しく”なります。

苦しく感じる自分がいるとき、それは、自分が不適切なのではなく、
その苦しさが、「自由でない」ということの印です。

だからこそ、常に自覚して、物事を「個の自由
」という視点から見る目を失わないでいる必要がある、
という時代に、私たちは生きているのです。