「してあげる」は、相手のほうも気を遣う

「自分中心」の視点に立てば、自分に起こっている出来事は、すべて「自分のために」という捉え方ができます。

例えば、相手に協力したいとき、手助けしたいときであっても、
「してあげる。気を遣ってやってあげる」
という気持ちになってしまうとしたら、それは「我慢」しています。

自分が我慢しているという認識で、相手のために動いていると、どうしても不満が残ります。

不満が残れば、あとで、その「してあげた」相手となんらかの問題が起こったとき、それをきっかけに、これまで我慢して「してやった」ことや「気を遣ってやった」ことの不満を相手にぶつけてしまうかもしれません。

ですから、「やってあげる」という気持ちが起こったときには、もう一度、自分の気持ちを確かめてみたほうがいいでしょう。

自分が心から、それを“したい”と思っていることなのかどうか。

もし、それを、自分が“したい”と思っているのであれば、それは、相手のためではなく、まさに自分のためにするのですから、そうすることで満足感を覚えるでしょう。

もちろんそれは、「してあげる」という気持ちが起こったときには、しないほうがいいと言っているわけではありません。

「してあげる」という気持ちになっているとしたら、
「じゃあ、私が“したい”と感じるのは、どの程度なんだろう」
と、自分の気持ちを確認してほしいのです。

AとBを相手に「してあげた」ら、少し不満に残る。
けれども、Aだけだったら、「したかったから」という満足感で終わる。
この差に気づくことです。

「でも、Aだけでは、相手は満足しないかもしれないじゃないですか」
と言いたい人もいるでしょう。

ところが、案外そうではないのです。

相手のほうも、「してあげる」という気持ちでされると、それがわかります。
「してあげる」という意識は、相手にもしっかりと伝わっています。

まるでそれは「貸し借り」のような気がして、相手もまた、
「どこかで、お返しをしないと、気分がすっきりとしない」
という気が残ったり、素直に「ありがとう」と言えない気分になっていたりするものです。

もっと極端なことを言えば、実際に、例えばあなたが「してやった」というふうに思っているときは、相手のほうも、それを望んでいなくて、「されて“やった”」と思っています。

つまり、あなたが気を遣って「してくれる」ので、相手のほうも、本当は迷惑だけど、あなたを傷つけないために、「されてやっている」のです。

こんなふうに、自分の気持ちと相手の気持ちは一致していることが少なくありません。

ですから、自分のためにも相手のためにも、自分がそれを“したいかどうか”を判断基準にしたほうが、お互いに無理をしないですむのです。