大半の人たちが自分に厳しい 

 大半の人たちが、「自分に厳しい」自分に気づいていないかもしれないと思うことが多々あります。

人が集まるさまざまな交流会や集会など公的の場で、自分の意見を意見として述べる人たちがあまりいなくなったとは、よく知られていることです。

私のセミナーでも、質問してくる人たちは限られています。
講演に行っても、ほとんど質問がありません。
心の中で、質問だらけになったら、楽しいだろうなあ、なんて思います。
ただ、質問される人も、事前に「準備が必要」で、アドリブで答えられないという人たちもいるでしょう。

(質問されることを嫌う人もいます。だから、良い悪いはないのですが……。)

自分の意見を言ったとき、
「みんなが、どう反応するだろうか」
「質問の内容が幼稚だと、馬鹿にされないだろうか」
「的外れなことを言ってしまって、笑われるのではないだろうか」
「自分が言ったことを否定されたり、攻撃されたりするのではないだろうか」

こんなふうに考えてしまったら、言いたい気持ちよりも、周囲の反応を恐れる気持ちのほうが勝って、口を噤んでしまうでしょう。

かと思えば、事実、人が言った一言に過剰に反応して、「傷つけられた」とばかり感情的になって反論したり、怒鳴って言い返す人もたまに見かけます。

この両者は、一見、自分に厳しいことは何の関連もないように思うかもしれません。が、そうではありません。

その奥には、自分が意見を言うときは、
「すべての状況を的確に把握して、誰からも突っ込まれないよう理論武装をしていなければならない」
「どんな相手に対しても完璧に論破できるようになっていなければならない」

こんな強い思い込みが潜んでいるのではないでしょうか。
そんな思い込みがあれば、「とても無理だ」と考えたり、
「黙っていたほうが、無難だ、安全だ」
と判断して、言うのをやめてしまうでしょう。

すでにこんな発想をしてしまうこと自体が、自分のミスを許せなかったり、「常に完璧でなければならない」などと、自分に対して厳しい条件を突きつけていると言えるでしょう。

自分に対して「そうあるべきだ」と強制していれば、他者に対しても「そうあるべきだ」と厳しく要求しがちです。

あるいは、相手が自分と同じ条件下でなければ「不公平だ」とばかりに、相手の言動を俎上に挙げて徹底的に糾弾したくなるでしょう。

自分に厳しい要求を突きつけている人は、相手も「そうしないと許せない」という気持ちになりがちです。

そうやって、自分に厳しい人たちほど、他者にも厳しい要求を突きつけ、互いに、厳しく束縛し合うことになってしまうのです。

ところが、これは、立場的には飽くまでも、「下」の人たちです。 
                             つづく