経験していないことは、見えない

経験していないことは、見えない

 昔は、良くも悪くもそれぞれの地域では、自分の家族と他の家族との交流がありました。
 今のようなママ友同士のようなつき合い方ではなく、よそ様のお宅に上がり込んで、まるでその家の家族の一員ででもあるかのように密着したつき合いもありました。

 これが良いことかどうかの議論は別にして、人との関わり方や他の家
の家族の在り方などを、自分の家庭と比較できました。

 けれども、今は、そんなことを体験的に比較することができません。

 頭で理解したり、知識で知ればいいじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、やっぱり、経験と知識とでは、まったく交流し合わない隔絶された領域でもあるようです。

 自分が感情レベルで体験したことと、知識で学んだこととが、つながらないのです。

 例えば、自分中心心理学で非常に重視しているのは「選択の責任」です。これは、人と人とがプラスの関わり方を構築していく上で、非常に重要な概念です。

 これを用いて自分の過去を振り返れば、とりわけ親子関係や家庭環境での出来事を振り返れば、「明らかに不当なこと」をされていた。場合によっては虐待とも言えるようなことをされていた、と理解できるはずです。

 ところが、長年自分中心を学んでいる人さえも、親にされた不当なことについて、
「それが当たり前だと思っていた」
 というコメントには唖然とさせられた、ということがありました。

 もちろんそれは、自分の無意識の中に、「過去の自分や、過去の親子関係と向き合う」ことの恐れがあるから、というのは理解できます。

 ただ、もう一つ。
 その人にとっては自分の家庭の記憶が、自分の人生の基準となっているという点です。

 自分の家庭環境が基準になっていて、他に比較するものがなければ、
その違いを自覚することさえできません。

 乱暴な家庭であれば、これが基準になります。
 会話のない殺風景な雰囲気の家族であれば、それが家族の基準になります。
 愛がなければ、愛がない状態が基準になります。
 もちろん、愛があれば、それが自分の人生の基準となります。

 自分が経験したことがなければ、「ない」も同然です。

「愛」を経験していなければ、仮に自分の眼の前に「愛があった」としても、それが愛かどうかすら、わからないでしょう。

 それ以前に、相手が「自分を大事にしてくれているのだ」と気づくチャンスがあったとしても、「まるでなかった」かのごとくに通り過ぎてしまうでしょう。

 自分の中に愛がなければ、「愛はない」。
 試しに、私自身がそんな「愛のない」眼で周囲をみたとき、
「こんなふうに見えるのか」
 と愕然としたことがありました。

 私もまた、「愛のない世界」というものを、知らなかった、ということを知った瞬間だったし、そんな世界で生きている人を(少し)理解できた瞬間でもあったのです。

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